第2章 商業資本=都市の成長と支配秩序
第2節 地中海世界貿易とイタリア都市国家群
この節の目次
コムーネによる都市統治権力の吸収は、都市の周辺領域 contado の支配層を都市コムーネの統治階級に統合するという形態でおこなわれた。
中心都市には、遠距離貿易商人を中核とする富裕商人層によって市政宰領府 signorie と政庁が組織され、この都市自体として統治団体としてのコムーネを構成していた。
12世紀後半、多くの都市コムーネは、コンタードの各地に独自の支配領域をもっていた貴族・騎士層に対して都市内への移住を強制した。所領支配権や統治権力の担い手を中心都市に結集させ、都市コムーネの直接的な監視と影響力のもとに置いたのだ。富裕商人層と貴族・騎士層とのあいだの人的交流や通婚(家系的結合)も進んだ。
やがて都市の統治団体に融合した貴族の所領支配権に都市コムーネは制限を加えて、彼らをコンタードにおけるコムーネの権力の中下級装置=エイジェントとしていった。領主は諸領内で都市の役人とともに徴税を行い、収入の半分を特権と見返りの賦課金・税としてコムーネに納めた。
コンタード contado という語は、本来「伯領」「伯の支配地」という意味があった。フランク王国の初期には帝国の各統治管区を支配する伯と有力貴族たちは都市集落に居住する場合が多かったという。ところが、森林や草原が切り開かれ農村や農耕地が広がるとともに、領主である伯や貴族は農村に居城を築いてそこに常住するようになっていった。
有力者や貴族が「支配の中心」としての都市に居住するという制度は、古代ローマ盛期のレジームとなっていたという。だが帝国末期にはガリアやヒスパニアの辺境では、農村を支配する大土地所有者階級はしだいに郊外や農村に居住するようになったようだが、この傾向が発展する前にローマ帝国は崩壊した。
固有の実体的な統治装置を持たなかったフランク王国=帝国では、おそらくローマ教会の知識や行政慣習にならって、ローマ時代の遺制が残存していた都市集落、古代の都市の遺構に再建された集落に地方統治の拠点を置き、伯や貴族を居住させたものと思われる。だが、農地開拓と農村建設が進むと、経済的剰余への支配をより直接的に実現するために、領主貴族たちの多くは農村に城砦を構えて移住したようだ。
この傾向は、イタリアでは中途半端なところでとどまったのだろう。
都市のコムーネ運動ないし自立化に対する領主貴族の対応はさまざまだった。所領や支配地をめぐる権力・特権をできるだけ維持しようと、都市コムーネに対して多様な対策・対応をとったようだ。
市内に移住して都市の有力貴族としてコムーネに積極的に参加し金融や貿易に手を染めていく領主もいた。また、都市に定住しないで所領での権限を保ち続けながら、他方でコムーネの市民としての権利をも獲得し、都市と農村の両方に居館を構えて行き来する者もいた。さらに、コムーネと交渉して、市内に移住して市民となるさいに領主権限の主要部分、たとえば流通税や城砦支配権などをコムーネに譲渡するけれども、ほかの権限は保持し続けようとする場合もあった。
しかし、長期的に見て支配階級として生き残ったのは、いずれにせよ都市貴族として富裕商人層と同化して資産を活用して金融や貿易活動を営む家系だけだった。
そのほか、コンタードのなかには小規模な集落コムーネ(小都市)が散在していた。中心都市のコムーネは、それらの集落コムーネに独自の権限を認めたうえで執政官を派遣し、執政官はそれらの集落の条例を規範として統治をおこなった〔cf. 清水〕。
それぞれの周辺諸都市コムーネのその市域内での自治権は、中心都市への賦課や税の支払いと引き換えに認められていた。コンタード内にある大小のさまざまな都市団体 comune に対しては、有力諸都市はそれらと協約を結んで、内部自治を認めながら自分たちの通商特権や裁判権、課税権を上位の権限として貫徹させようとした。
上述のように、司教座都市はコンタード征服運動をつうじて、周辺地域を領域的に支配するようになったが、その都市国家の統治領域は、①市壁の内部と市壁に隣接する区域を含めた市域 civitas 、②都市の司教区 episcopatus と旧来からの都市支配圏域からなる市領地 comitatus 、③市領地の外縁にあって都市が新たに支配した郡域 districtus 、という3つの圏域から構成されていた〔cf. 清水〕。
郡域は有力諸都市のあいだの勢力争いによって、しばしば帰属先が変動したが、市領地は13世紀までは、法観念上ほかの都市コムーネが介入してはならない、主権がおよぶ領域だった。有力商人層の世俗的権力を中核としたコムーネの領域的統治は、それ以前の司教区という聖界権力の管区を基盤として引き継いで形成されたものと見られる。
「諸都市国家がそれぞれ相互に相手の支配領域と主権を尊重する」という原理は、ほどほどの規模の多くの都市国家が、突出した大きな権力の出現を「勢力均衡」によって牽制し合うという原理をともなっていた。イタリアには、小規模な諸国家体系が成立していたのだ。
さて、12世紀末のイタリアでは、200から300の自治都市が周囲の農村地帯を支配領域として統治する領域国家を形成していた。都市統治団体 comune は、周辺地域との密接な紐帯を維持し、また周辺地域の統治や生産の組織化の中心であり続けた。
都市社会はきわめて不均質な多様な住民グループからなり、そのなかには周辺農村を支配と居住の拠点とする貴族・領主層をも含んでいた。そして、統治機構のなかでの優位をめぐって有力市民諸分派のあいだの闘争が慣習化していた〔cf. 清水〕。
闘争は都市コムーネの内部だけではなく、コムーネどうしのあいだでも展開され、同盟や服属、さらには併呑や統合がおこなわれた。時の経過とともに、弱小都市は有力都市国家に吸収され、やがてより規模が大きな少数の一群の諸都市国家が対抗するようになっていった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章 ― 1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章 ― 2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
補章 ― 3
ヨーロッパの地政学的構造
――中世から近代初頭
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成