第2章 商業資本=都市の成長と支配秩序
第2節 地中海世界貿易とイタリア都市国家群
この節の目次
10世紀から始まったヨーロッパでの農業の発展は、13世紀末から14世紀初頭にかけて飽和点と臨界点に達した。農業危機と食糧難、そして疫病の猖獗がやって来た。
しばしば強引な方法でおこなわれた土地開墾と、たいていの場合大地からの収奪と変わらなかった農業のつけが回ってきたのだ。食糧の需給バランスがついに破綻した。14世紀初頭から数十年間、飢饉の発生頻度は増え、飢饉に襲われる地域はますます広くなった。1315~17年にかけてピークに達した飢饉は、目を覆うばかりの惨状をきたした。
14世紀のヨーロッパは人口過剰と農業危機、それゆえまた食糧不足、栄養失調の時代だった。ヨーロッパの人口の多くが飢餓と衰弱死の危難にさらされていた。このことは、1348年のペストがなぜ、地中海からスカンディナヴィアまでまたたくまに蔓延し、夥しい人口を奪ったかを説明する。
しかも、人口激減はただちに食糧事情を好転させなかった。というのは、その直後には耕地の放棄や農村の荒廃が一気に進み、農耕地が草原や森林に飲み込まれたからだった。食糧生産と供給はしばらく減衰を続けた。こうして、14世紀半ばから数十年にわたって飢餓と疫病の悪循環が続いた。
13世紀末のイタリア半島の人口(推計)は700万から900万のあいだにあり、中部と北部ではその多くが都市に生活していた。ボローニャでは人口中に都市居住者の占める比率は40%を超え、パド-ヴァでは30%、地方によっては半数を超えるところもあった。
人口密度の高い都市人口を養うため、ヴェネツィアやジェーノヴァは、遠方から穀物を海運で輸入していた。一般に、都市の人口を支えるために農業と土地に過剰な負担をかけていた。例外はロンバルディーアで、干拓や潅漑事業が計画的・集中的に進めめられていた。
だがイタリア全体として、農業は大地からの収奪にほかならず、施肥の不足で土地の肥沃度が低落し、しかも気候不順が続いたため、輪作のリズムが崩れていた。そのうえ燃料や造船、建築の材料として森林の乱脈な伐採が続いて山地の保水性が破壊され、耕地や農村を洪水がたびたび襲った。
イタリアではペストがとりわけて猛威を奮う環境ができあがっていた。14世紀はじめと終わりのあいだの人口減少率は、ピストイアでは47%、オルヴィエートでは60%以上、フィレンツェでは何と都市人口の4分の3が失われたという。
農村でも荒廃が進んだ。シエーナやローマ平原、またとりわけ南部や島嶼では、田園が湿地帯や荒蕪地に退化してマラリア猖獗地になったという。放棄された土地の多くは草原化して、移動式牧羊の冬営地になった。ピーサでは、排水施設や水路網が荒廃して湿地や沼沢が増えた結果、マラリアの蔓延や洪水に悩まされ、港湾は土砂で埋まったという〔cf. Proccacci〕。
14世紀後半のイタリア諸都市では飢饉・食糧危機がきっかけとなって暴動や反乱が続発した。農民の反乱も繰り返された。
富裕階級のあいだでは土地や不動産への投資ブームが起きた。都市では広壮な邸宅が建てられ、農村にも瀟洒な別邸がつくられた。これらは、遠距離貿易のリスクとコストの管理が複雑になり、商業がますます投機性を高めていくことに危機感を抱いて、土地や建築物が堅実な投資先と見なされたからでもあるという。
景気循環の下降局面がやって来ると、ハイリスク・ハイリターンな商業活動によって、商業利潤はますます少数の有力者に集中したため、富裕商人層は都市門閥貴族に変貌していた。多くの場合、蓄えた経済的・金融的権力を土台に、彼らは軍事力(私兵団)を備えて、都市統治での寡頭支配を求めるようになった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章 ― 1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章 ― 2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
補章 ― 3
ヨーロッパの地政学的構造
――中世から近代初頭
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成