第2節 地中海世界貿易とイタリア都市国家群

この節の目次

1 都市の領域支配圏域の形成

ⅰ 領域支配の成立過程

ⅱ コムーネ運動の前史

ⅲ 都市コムーネの権力獲得

ⅳ コンタード支配の確立

ⅴ フィレンツェの統治構造

2 北イタリアの都市国家群の展開

ヴェネツィア

ジェーノヴァ

ミラーノ

フィレンツェ

3 イタリア都市国家群の文化

異端運動と教会

大学設立と専門家・知識人

4 14世紀の危機とイタリアの地政学的環境

ⅰ 農業危機と疫病、人口危機

ⅱ ローマ教会と君侯権力

ⅲ 断続する戦乱と権力集中

ⅳ イタリア都市国家群の構造的弱点

5 地中海貿易圏の構造的変動

ⅰ 地中海東部での権益縮小

ⅱ 商業資本と社会的分業

ⅲ リスクとコストの増大

ⅳ 北西ヨーロッパへの重心の移動

6 地中海貿易の構造転換

ⅰ 貿易品目の変遷

ⅱ オスマントゥルコの勢力伸長

ⅲ ヨーロッパ世界市場の出現

ⅳ 金融事情と投資市場の変動

7 「イタリア諸国家体系」の変貌

ヴェネツィア

ジェーノヴァ

フィレンツェ

ミラーノ公国

ナーポリ=シチリア王国

ローマ教皇領

8 ヨーロッパ諸国家体系とイタリア

◆フィレンツェ◆

  フィレンツェでは1340年頃に飢饉がつづいた。しかも、金融危機が続いた。
  フランス王によるフィレンツェ商人資産の差押さえなどが打撃となって、大商事会社がいくつか破産した。しかも、イングランド王への貸付金が回収不能になったのだ。市内の有力な金融家たちはナーポリ王やイングランド王に莫大な金額を融資していたが、1339年イングランド王室が債務支払停止(つまり破産)を宣言すると、フィレンツェを恐慌が襲った。そのうえ、41年には巨額の支払いと引き換えに手に入れたルッカ市がピーサに奪われてしまった。
  市内の金融商人層に依存している都市財政と経済は麻痺した。コムーネの統治は混乱し、ゴーティエによる君主政治の試みも失敗し、不況にともなう階級闘争や党派闘争が先鋭化した。下層民衆の圧力が高まるなかで、43年には零細な手工業者の小組合も行政に参加する権利を獲得した。だが、彼らと富裕市民とその政派「教皇党 Guelfi」との敵対は深まっていった〔cf. Proccacci〕
  おり悪しくヨーロッパ全域で凶作=農業危機が続いて食糧価格が高騰していた状況が下層民衆の抵抗に拍車をかけていた。

  こうして、食糧危機と不況、統治の混乱・紛争に打ちのめされていたところに、1348年にペストが来襲した。その後も、疫病は繰り返しやって来て人口の少なくとも30%を奪ったという。14世紀初頭には10万に近かったフィレンツェの人口は、1350 ― 80年には5万前後にまで減少した。それも、周囲の農村を捨てて流入した民衆の人口を加えての数字だった。
  そのうえ、戦争も続いていた。14世紀前半はルッカとの戦役が続き、1351 ― 53年、69 ― 70年にはミラーノとの戦争、1362 ― 64年にはピーサとの戦争、1375 ― 78年には教皇庁との戦役があった。膨大な戦費は、豊かな都市の歳入を食いつぶし、コムーネ財政は極度に悪化していた。

  だが、都市政府を握る有力商人層は間接税の増徴で税負担の重みを下層民衆に転嫁し、あまつさえ政府財政のやりくり――高利回りの短期公債の発行や借換えでの利上げ――からさえ利益を引き出そうとした。
  1315年、都市での直接税(資産税) libra が廃止――周辺農村部では継続――され、財政収入は主に間接税 gabella とかアルテや富裕市民からの借入れ、強制公債 prestanza forzosa に依存するようになった。公債利子は普通15%で、コンパニーア compagnia の預金利率5 ~ 10%よりもずっと有利だった。
  つまり、所得の低い民衆ほど負担率が重くなる間接税の収入で、富裕階級が購入した公債の利払いに充てたわけだ。14世紀半ばには、公債の売買の自由が確認され、売買自由な公債 monte は、土地と並んで富裕階級による投資対象になっていた〔cf. 清水〕
  これは、富裕商人層の利害に合致する財政政策で、彼らは資産への課税を免れたうえに、負担を所得の低い下層民衆に転嫁した。しかも間接税の徴収請負制――これは富裕商人層による徴税権の買収を意味した――によって、課税業務を営利事業化していた。

  フィレンツェ都市国家時代の行財政に関する資料は豊富に残されているという。そのなかから、税収の記録を抜き出してみる。

1338年のフィレンツェ市の収入の上位

城門関税90,200 フィオリーニ
ワイン小売り税58,200
コンタード直接税30,100
契約税30,000
裁判収入20,000
賭殺税(都市)15,000
塩 税14,450
(中略)14,450
粉 税4,250
  主な食糧飲料にかかる消費物品の間接税としての「ワイン小売り税」「塩税」「粉税」を合計すると、72,650フィオリーニにのぼる。これに城門関税を加えて主な流通税を合計すると162,850フィオリーニとなり、商品流通に課される税の比率が大きいことがわかる。

  14世紀後半には、経済危機のなかで困窮を深めた下層民の抵抗も激化していった。1343年には下層民衆の街頭示威行動が起きた。
  14世紀半ばの黒死病の蔓延によって都市の死者も夥しかったが、人口の激減で農民村落が崩壊し耕作を放棄した農民も多かった。彼らは、コンタード農村部から都市に流入して、毛織物製造業の下層労働者となった。こうした民衆は、団体結社をつくり、政治闘争の舞台になだれこんできた。彼らはチォンピ ciompi と呼称された。
  1378年、広場に集まった下層民群集 popolo minuto の街頭示威は暴動に発展した。チォンピの反乱 il tumult dei ciompi である。彼らは富裕層の邸宅を焼き打ちし、警備隊長を殺害し、市庁舎の政府代表たちを追い出して、政庁の役員に小組合のメンバーや毛織物労働者を押しこんだ。
  だが、82年には教皇党が政権を奪い返し、大金融業者や商業貴族からなる特権的な寡頭支配層の権力をいっそう強化した。フィレンツェの統治は、メーディチ家、アルベルティ家、リッチ家、アルビツィ家などの一握りの門閥家系によって牛耳られることになった〔cf. Proccacci〕

  結果として、同質的な支配階級が権力を独占する安定した政府ができあがった。それは、支配階級内部での家系の交替と権力の移動をともなっていた。バルディ家やベルッツィ家などの古い家柄の金融業者が没落し、メーディチ家などの新興金融業者が台頭して、比較的に政治的凝集性の高い統治集団を形成した。少数の有力者による支配は、これまでの派閥闘争や階級闘争の多くを封じ込めることになった。
  政庁は、富裕階級の専横を抑えながら、1427年に市民の資産台帳 catasto を作成して、課税基盤をより精確に把握し、政府財政の健全化につとめた。
  権力ブロックの再編には産業構造の転換がともなっていた。毛織物製造は後退し、生産量は14世紀半ばには半世紀前の3分の1にまで縮小した。それに代わって、特権的な富裕層向けの奢侈品としての性格が強い絹織物産業が全盛期を迎えた。そして、ピーサの征服で貿易港を獲得したフィレンツェは、オリエントと地中海、北西ヨーロッパを結ぶ自前の貿易経路を組織することになった。富裕商人の手許には巨額の利潤が流れ込んできた。
  その好景気のなかで、建築ブームがやって来た。サン・ジョヴァンニ聖堂やサン・ロレンツォ教会などの大規模な宗教施設と並んでメーディチ家などの広壮な邸宅・別荘が建設された。都市の目抜き通りに林立する商業貴族たちの大邸宅は、市民や来訪者たちにフィレンツェ商業資本の権力を誇示する威容を備えていた〔cf. Proccacci〕

  14世紀後半、フィレンツェ市内と商人たちの進出先とを結ぶヨーロッパ的規模での商業郵便制度が創出された。個々の商人経営や団体のネットワークではなく、都市国家が組織する公共の郵便制度だ。当時の最先端の情報通信システムで利用料金は高額だったようだ。
  フィレンツェ商人集団の拠点を結ぶ船便や荷馬車便が継立てられて、書簡や文書がイタリア本領とのあいだでやり取りされた。
  この通信システムは資本の世界市場運動に転換をもたらした。郵袋のなかに納められた文書には、取引伝票、指図書、取引や用船の契約書、為替送金手形のほかに世界市場各地の経営判断にとって重要な政治経済や軍事、農産物の作柄などをめぐる情報を記載した書簡などが含まれていた。
  とりわけ為替手形、信用状は、遠隔地間の送金や決済取引をめぐる金融・資金循環の仕組みを決定的に組み換えてしまった。つまり、取引の安全性・確実性を押し上げたうえに、貨幣資本の流通・循環速度や回転率を飛躍的に高めることになった。

  イタリアにおける諸都市のあいだの戦争では、フィレンツェはヴェネツィアと同盟しミラーノを向こうに回して戦った。1406年にはピーサを征服して地中海への出口を獲得し、11年にはコルトーナを攻略、21年には港湾都市リヴォルノを買い取った〔cf. Proccacci〕。港湾都市ピーサとリヴォルノの獲得を契機に、フィレンツェはピーサに海洋庁を創設し、ガレー船団を編成してリヴォルノから海洋に乗り出し航海事業=遠距離貿易を組織するようになった。
  支配圏域(コンタード)の拡大にともなって、支配的なフィレンツェを中心とするいくつかの都市国家のあいだの同盟が形成された。フィレンツェは周辺の諸都市を統制・監視するために周辺コムーネにポデスタ podesta を長官とする行政官団を派遣した。現地コンタード(派遣先)が自ら選出した統治者団はカピターネオ capitaneo と呼ばれた。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第1篇
 ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市

◆全体目次 章と節◆

序章
 世界経済のなかの資本と国家という視点

第1章
 ヨーロッパ世界経済と諸国家体系の出現

補章 ― 1
 ヨーロッパの農村、都市と生態系
 ――中世中期から晩期

補章 ― 2
 ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
 ――中世から近代

第2章
 商業資本=都市の成長と支配秩序

第1節
 地中海貿易圏でのヴェネツィアの興隆

第2節
 地中海世界貿易とイタリア都市国家群

第3節
 西ヨーロッパの都市形成と領主制

第4節
 バルト海貿易とハンザ都市同盟

第5節
 商業経営の洗練と商人の都市支配

第6節
 ドイツの政治的分裂と諸都市

第7節
 世界貿易、世界都市と政治秩序の変動

補章 ― 3
 ヨーロッパの地政学的構造
 ――中世から近代初頭

補章 ― 4
 ヨーロッパ諸国民国家の形成史への視座

第3章
 都市と国家のはざまで
 ――ネーデルラント諸都市と国家形成

第1節
 ブリュージュの勃興と戦乱

第2節
 アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗

第3節
 ネーデルラントの商業資本と国家
 ――経済的・政治的凝集とヘゲモニー

第4章
 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折

第5章
 イングランド国民国家の形成

第6章
 フランスの王権と国家形成

第7章
 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成

第8章
 中間総括と展望