第2章 商業資本=都市の成長と支配秩序
第2節 地中海世界貿易とイタリア都市国家群
この節の目次
すでに見たように、多数の小さな都市国家の一群がイタリアに独特の政治的・軍事的空間を織りなしていた。この地政学的環境=構造をここでは「イタリア諸国家体系」と呼ぶことにしよう。
このイタリア諸国家体系は、地中海貿易の構造転換とヨーロッパ全体の地政学的状況の変動によって大きく変貌しようとしていた。
あれこれの都市国家に共通する状況を乱暴に概括してしまうと、フランスやエスパーニャなどの強大な王権がヨーロッパでの力関係を視野に置いてイタリアに介入し、勢力争いを繰り広げるようになったということだ。そのため、戦費がけた違いに膨張して深刻な財政逼迫=危機に見舞われるようになった。
そのため、各都市コムーネは、直接税として資産税を設けるというような税制を組み換えるとともに各種の公債制度を開発していく。そして金融市場のなかに――いまだ未分化だが――公債市場が生まれ、債券は有価証券として流通するようになった。そこで、公債債券は婚姻時の持参金やら取引の決済のために利用されるようになった。
これはイタリアの特有の事情で、ほかの地域では金融市場がまだまだ未成熟な状態が続いていた。それにしても、これによって金融循環と資本蓄積の様式に大きな変革が始まったことは間違いないだろう。
⇒参考資料絵地図《13世紀~15世紀のヨーロッパ交易ネットワーク》
ヴェネツィアは、14世紀をつうじて途切れることなく遠距離貿易を拡大していった。その背景には、造船技術の進歩によって、大型商船の積載量が――平均700トンに――増大したことがあった。
ことに、14世紀初頭に開設されたフランデルンやイングランドとの定期航路での貿易は著しく膨張した。ヴェネツィア商人はイングランド産の羊毛をフランドルに供給する経路を大規模に組織し、製造された毛織物をヨーロッパ各地や地中海東部に売りさばいた。
ヴェネツィア商業資本の権力は、北西ヨーロッパでも頭抜けていて、ハンザ商人勢力をはるかに凌駕していた。また、レヴァントでの優位を基盤に、ヨーロッパ市場にもち込むオリエント商品や奢侈品の量と品目が拡大した。香料や綿織物、砂糖、地中海のオリーヴ油、銅(兵器用)などは、莫大な商業利潤を生んだ。
北西ヨーロッパ諸都市では、商人の富と権力が飛躍的に成長していたから、需要量の増大が供給量の増大を上回っていた。とくに富裕階級による絹の需要の増大によって、ヴェネツィアの絹織物製造は急成長して基幹産業になった。
また、ブレンナー峠越え内陸ルートでドイツ方面との貿易量が増大し続けた。ヨーロッパ中の商人たち、とりわけ中央ヨーロッパ各地――ライン方面、中部ドイツ、南ドイツ、ボヘミア(ベーメン)――の商人たちがこの都市に来訪した。
ヴェネツィアはイタリア地域でも、毛織物の仲介貿易を組織した。15世紀前半、ロンバルディーアの内陸諸都市から毎年4万8千反の毛織物と4万反の綾織り綿布が市内に送られてきたという。そのうちフィレンツェだけで1万6千反の毛織物を引き渡した〔cf. Proccacci〕。その代わりに、ヴェネツィアは塩や穀物などを内陸諸都市に販売した。北イタリアの繊維産業は、販売経路を掌握しているヴェネツィア資本に従属していた。
14世紀後半、ヴェネツィアはジェーノヴァとの戦争状態が続いた。
ジェーノヴァはキュプロス島小アジア北西のテネドス島を領有したうえに、大艦隊がアドリア海北部に迫り――キオッジャの戦――、ジェーノヴァ優位のうちに講和した。けれども、ジェーノヴァは軍事的には勝利したが、莫大な財政支出で消耗し、都市内では貴族層の派閥闘争が激化して混乱した。
ヴェネツィアは戦費調達のために強制公債だけでは間に合わず、税制改革―直接税としての資産税の導入など――をおこなって切り抜け、指導者階級の政治的結束を維持した。次いでトゥルコの圧迫をはねのけ、ダルマティア沿岸の支配権を回復し、ギリシア方面に前哨基地を獲得した。1416年にはダルダネルス海峡入り口のガリポリ海戦でトゥルコ艦隊を撃破した。とはいえ、ヴェネツィアが制海権を保持できたのは、比較的近い海域に限られた。
一方ヴェネツィアは内陸部に進出し、北イタリアでは後背地の諸都市、ヴェローナ、パードヴァ、ヴィチェンツァを支配するようになった。その後、ドイツの帝国やオーストリアとの戦争に勝って、フリウリ地方とヴェネト北部に支配地を拡大した。さらに、15世紀前半の多くの戦争に参加してロンバルディーアでのミラーノとの闘争を優位に進め、かなりの領土拡大に成功した。1433年にはベルガモとブレッシャ、41年にはラヴェンナ、54年にはアッダ河沿いの領土とクレーマを獲得した。
アルプス地方にまでおよぶ後背地を獲得したため、ヴェネツィアは木材の供給地と豊富な穀物の調達経路を確保できた。富裕な商人貴族層は、蓄えた富を土地への投資に振り向けるようになった。15、16世紀には、土地改良や潅漑、開墾事業が進み、農業基本施設や土地の権利関係の紛争を調停する機関が成立した。
1550年代には後背地での食料生産のために、トウモロコシが導入されていた。その栽培は、次の世紀までにはヴェネト地方全域に普及し、農民の基本食糧になった。米の栽培も16世紀中に導入され、有力な食糧になった。内陸部では、土地改良や潅漑施設など農耕インフラストラクチャーが整備されると、土地経営や農業は利益を見こめる投資対象になった。
人種や宗教に対して寛容なヴェネツィアには、世界各地からやって来た商人たちが居留していた。トゥルコ商人たちの商館と礼拝所もあった。中欧からはキリスト教ドイツ人とともに、ドイツ系ユダヤ商人が定住した。政庁は、ユダヤ人街区を指定して彼らを居住させた。彼らは、ヴェネツィア人がしだいに手を退いていく金融業を担うようになった。域外人が活躍したのは、このほか、軍事活動(傭兵)や穀物輸入、海運業などだった。
ところで、イタリア諸都市で広く制度化されていた「間接税」つまり消費物品の購入にさいしての課税は、一般に税負担の重みを低所得の民衆に加重する方式である。14世紀の財政危機に直面するまでは、諸都市では政庁収入において間接税や関税などの流通税の占める割合が大きかった。
しかもイタリア都市国家では、都市の領主貴族層や富裕商人が市域外コンタードに所領を所有することによって、さらに税負担を不公平なものとしていた。
というのは、彼らが自分の所領収入として収取する農産物・加工品のうちから自家消費する小麦やワイン、オリーヴ油などには――家政外の流通・販売過程を経ていないので――課税されないからだ。
しかし、間接税による所得が小さい民衆――人口は圧倒的に多いのだが――への課税の基盤はあまりに狭隘で、戦費による市政の債務がかさむと財政逼迫を処理しきれなくなった。そこで、14世紀後半から、各都市国家では土地や邸宅、販売用資産などに対する直接課税が大がかりに導入されるようになったのだ。
もちろんこれには、疫病による人口減少や下層民衆の抗議や抵抗の頻発、そして政治的発言力の増大が影響していたと見られる。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章 ― 1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章 ― 2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
補章 ― 3
ヨーロッパの地政学的構造
――中世から近代初頭
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成