第2章 商業資本=都市の成長と支配秩序
第2節 地中海世界貿易とイタリア都市国家群
この節の目次
ジェーノヴァの商人団体は、船舶の建造や船団の組織化と運航、さらには植民地や交易拠点の統治と経営も、純然たる商業組織として、つまり私的企業としての単独の利害と商業計算において企画運営していた。
14世紀をつうじて、ジェーノヴァ商人たちは、南フランスのラングドックやプロヴァンスからアラゴン、カタルーニャ、カスティーリャまで地中海を西進して、それらの地域での奢侈品貿易および金融市場を独占するようになった。セビーリャにはジェーノヴァ人街区があった。また、シチリアやサルデーニャ、バルセローナなどを足がかりに、北アフリカ地中海沿岸地方のさまざまな市場や都市に進出し、地中海西部で優位を確保した。
ジェーノヴァにとって、マルセイユやバルセローナは――中継や保管分配の機能を割り当てられた――従属的パートナーだった。
たとえば、地中海東部からジェーノヴァに着いたアジアの香辛料や絹、奢侈品は、マルセイユやエグモルトに送られ、そこからローヌ河を遡上してフランス各地に運搬された。南フランスやプロヴァンスから帰るジェーノヴァ船舶はガスコーニュやプロヴァンスの穀物や塩を運んだ。それらはジェーノヴァ市内の消費に回されるか再輸出された〔cf. Proccacci〕。事情はセビーリャやバルセローナでもよく似ていた。イベリアでは、ジェーノヴァ商人は羊毛や鉄などを買い付けて、北イタリアやフランデルンに供給した。
ところが15世紀には、最有力の商人たちは蓄積した貨幣資本をつぎ込んで金融業に特化していくことになった。15世紀半ばまで独占していた明礬貿易が衰退したことも、ジェーノヴァ商人が王室金融にのめり込んでいく原因となった。
こうして15世紀末になると、彼らは有力な金融商人として、アラゴン=カタルーニャ王権やカスティーリャ王権に接近した。南フランスのリヨンは、フランデルンやエスパーニャと貨幣や貴金属のやり取りをするジェーノヴァ商人の中継地点となった。
イタリア商人たちは、本領都市から域外に出て活動し、低地地方を中心とするヨーロッパ分業体系にイベリアや南フランス、イタリア南部を従属的な地位において組み入れる連結環としての役割を果たしていた。
とくにジェーノヴァ商人たちは、その金融ネットワーク=支店網をヨーロッパ中に張りめぐらして、有力商人たちの遠距離通商の取引きをめぐる決済を媒介し、巨額の貴金属貨幣や信用を動かしていた。そして、カスティーリャ王権、フランス王権、イングランド王権からドイツの弱小君侯まで、融資や賦課の支払いと引き換えに特権を獲得しながら宮廷財政と癒着していった。
さて、ジェーノヴァ都市国家の内部でも、有力商人層はいくつもの団体に分化して党派や派閥(政治的分派)を形成し、排他的に利権を求めて相互に競争・闘争した。そのため、都市コムーネは、有力ないくつかの門閥党派の敵対による内戦の危機をつねにはらんでいた〔cf. Mcneill〕。
都市統治をめぐっては、商人領主や商業豪族からなる貴族階級は、都市内部に対しても外部に対しても、統一的な支配階級ブロックを形成することはなかった。ゆえに、ジェーノヴァの政治体としての独立性や凝集性の確保はほとんど顧慮しなかった。あたかも経済的優越性があれば、どんな状況にも適応できるという、ふてぶてしい心性と行動スタイルだった。
もっとも、この時代は、域外権力への臣従や服属関係とはいっても、ほとんどの場合、税や賦課の上納と引き換えに都市国家内部の政治力学や権利関係はそのまま維持されていた。
ここでは、支配階級は、互いに対立する朋党アルベルゴ albergo ――名家どうしの寄り合い団体――や門閥の寄せ集めにすぎず、都市統治への影響力をめぐって争っていた。下級貴族や中小商人、職人たちはそれぞれ自力で都市統治への影響力を獲得しようと運動した。門閥諸分派やそのときどきの支配者たちは、敵対する派閥が優位に立ったり、民衆の反乱の危機が生じたりするたびに、都市内部での自分たちの地位や権益を守るため近隣の有力君侯に庇護を求めた。
ゆえに、14世紀のジェーノヴァの歴史は、絶えざる反乱と派閥闘争、外部の軍による介入の繰り返しだった。
1339年、民衆派が優勢になってシモン・ボッカネグラをドージェに推挙すると、有力貴族の指導者はミラーノのジョヴァンニ・ヴィスコンティ大司教に都市の庇護を求めた。大司教が死去すると、またもや激しい派閥闘争に戻った。やがて1396―1409年には、フランスの服属国になり、1921―36年はふたたびヴィスコンティ家の支配下に入り、1459―61年はフランス王権に臣従した。外部の庇護や援護を受けていても、域内統治の内実は門閥による寡頭支配だった〔cf. Proccacci〕。
ジェーノヴァの富裕階級は飛び抜けて豊かだったが、都市国家の財政は貧弱だった。コムーネの戦争やら海洋政策やらを推進するための資金は、あの手この手の間接税や直接税で負担を下層階級に転嫁した。挙句の果てに、政庁は財政資金調達のために「コンペラ公債 compera 」を発行して、富裕市民たちと膨大な額の債務契約を結んで公債を販売した。
だが、キオッジャ戦争は莫大な戦費を費やし、貧弱な都市財政をさらに追いつめた。政庁の負債残高は1408年に294万ジェーノヴァリラにのぼった。債権者たちは最大限の担保を要求して、サン・ジォルジォ銀行(金融団)を結成し、債務の質として公債の管理権を委譲させた。彼らはついには税収を管理するようになり、定期的な利払いを受けるために、市民への税負担をさらに加重していった。都市国家の財政を乗っ取ったわけだ。
だが、黒海と地中海東部でのジェーノヴァの支配が弱体化し、貿易が縮小してくると、公債償還リスクの担保としてはそれでも間に合わなくなった。しかも、1453年コンスタンティノープル陥落に続いて、とうとうジェーノヴァは黒海沿岸の植民地を失った。それだけ域外からの賦課や税による歳入が目減りすることになった。
銀行はさらに大きな担保を要求し、共和国の領土(東方の植民地や沿海地の城塞や所領)を直接管理し、その収入を掌握し、それらの権利を売却する権限を手に入れた。そして1421年には、リヴォルノ――ピーサの南方にある港湾都市で、ジェーノヴァが支配していた――をフィレンツェに売却した。
マキャヴェッリは「サン・ジォルジォ銀行は、ジェーノヴァに属する領土や都市の大部分を自ら管理し、統治し、防衛し…そこに自分たちの管理者を派遣する」と批判し、「国家のなかにあるもう1つの国家」だと指弾している〔cf. Proccacci〕。この銀行は、財政的に破産して解体の危機に瀕した都市国家から、財政収入の管理だけでなく、遠方の植民地と航路の運営と防衛などを含む多くの統治機能をコムーネから受け継いだわけだ〔cf. Mcneill〕。
だがそれは、特殊な私的権力としての君侯の家政装置が国家装置としての統治機能を掌握するという、当時のヨーロッパの統治秩序から見れば、それほど異様なことではなかった。ジェーノヴァでは、たまたま都市国家の支配者が金融団を組織した商人たちだったにすぎない。
さらに財政危機が深刻化すると、サン・ジォルジォ銀行が発行した債券に投資した小口預金者たちは、さらなる償還期限の延長に絶えられなくなり、解約して相場で債券を手放せざるをえなくなった。債券を買いたたいたのは、銀行を運営する一握りの富裕層だった。
こうして、ついに国家に対する債権は少数の有力な債権者グループに独占されことになった。やがて、この団体から、カール5世やフェリーペ2世の王室財政に食い込み、融資することになる大金融家たちが生まれてきた。富裕な市民階級に国家財政と領土主権を売り渡した都市がジェーノヴァだった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章 ― 1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章 ― 2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
補章 ― 3
ヨーロッパの地政学的構造
――中世から近代初頭
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成