第4章 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
この章の目次
アメリカ(大西洋諸地域を含む)との貿易はエスパーニャ経済にどんな効果をおよぼしたのか。
アメリカとの貿易は、カスティーリャの輸出を刺激し、見返りに流入する貴金属はインフレイションを引き起こしたという。アメリカからの貴金属の60~70%は、直接には王室の金庫には行かずにアメリカから輸入された商品の購買に充てられた。また、繊維製品、オリーヴ油、ワインなどへのアメリカからの需要が拡大し、それらの取引価格は急上昇した。マドリードの遠距離交易商人は、王権から与えられたアメリカ貿易独占の特許を振りかざし、エスパーニャ域内での通常の生産や生活にかかわる商工業活動を抑圧して、高い価格でこれらの商品を買い占めた。だから、これらの物価は高騰し、域内の民衆の生活水準を著しく押し下げた。
農村では耕地はオリーヴやぶどうという加工用作物の栽培に転用され、穀物生産や零細な牧羊・牧畜は犠牲にされた。そのため食糧生産は衰退して、1570年代初頭にはカスティーリャは大量に穀物を輸入する地域になってしまった。中部の農村では大所領との競争のなかで借地農や小土地保有農民は没落・激減し、大半の住民が大農園の農業労働者か移動労働者 jornaleros になってしまった。彼らが手放した土地は富裕化した特権層が買い取り集積した。
しかも、1570から80年代には農業不況が続いて農業労働者の多くは失業し、男性労働力の3分の1しか農業に従事していなかったという。ごく少数の特権層はますます富裕化して、都市に広壮な邸宅を建てて贅にふけった。他方で、少なくとも労働人口の4割以上は、農業や製造業などの生産労働から閉め出され、少数の富裕化した階級のこれ見よがしの奢侈、享楽に奉仕する給仕人や使用人などの職種に追いやられたようだ。「豊かな都市」に農村から多くの人口が流出し、労働力を失った農村では耕地や牧草地の荒廃が一段と進んだ。
そうでなくても、農業では危機が進行していた。エスパーニャの農業は、16世紀最後の四半世紀の不順な天候によって深刻な打撃を受けたという。域内の広い地域で凶作が続き、食糧の輸入が増えていった。1591年から94年にかけては飢饉が続いた。96年から1600年にかけては、栄養不足で抵抗力の低下した民衆を疫病が襲った。この災禍で人口の10%が失われた。その後、1680年代まで凶作飢饉と疫病の蔓延がくりかえした〔cf. Vincent / Stradling〕。
インフレイションと全般的な物価上昇は、幼弱で技術的制約の大きな繊維工業などの工業製品の価格を押し上げ、域外製品との価格競争力を奪い、製造業の成長を弱めた。域内製造業を追いつめた急激なインフレイションの原因はいくつかあるようだ。最大の要因は新世界からの貴金属の流入だった。1530年代以降、アメリカからの銀の流入が金属貨幣の流通量を膨張させ、貨幣の実質価値を押し下げたという。しかも、すでにそれ以前に、アメリカ向けの輸出ブームで食糧・飲料・食材、繊維製品、金属製品の物価上昇が始まっていた。
とりわけ原料羊毛の高騰が、域内の毛織物製造業を圧迫するようになってしまった。
また、宮廷の高官や貴族たちは、所領経営は悪化しているにもかかわらず、王権に寄食して得た金を惜し気もなく浪費した。アメリカからの送金や増税によって王室に集められた資金は、戦費にも回されたが、宮廷の駆け引きのなかで高官・貴族に気前よく分配されたし、そもそも税金が王室に行く前に徴税役人が利益と手数料をはねていた。
域内の貴族や商人に流れ込んだ巨額の富の多くは、造船・航海関連への出費・投資を除けば製造業には回らず、城館建築などの奢侈や娯楽などに注がれた。そのため、絵画、文学、科学、建築などの芸術では大きな発展が見られた――人類の文化には貢献したが、国家の統合には寄与しなかったのだ。商業利潤が経済的投資から王室財政に引き上げられて、戦費と奢侈品消費に回ったわけだ。
とどめは通貨改鋳だった。17世紀はじめに、戦争費用を捻出するための増税策がいきづまり、王権は低質な銀貨や銅貨を大量鋳造・発行して通貨を切り下げたのだ。通貨の値打ちが下がったため、前にも増してインフレイションが昂進した。
しかも、やがて当のエスパーニャ領アメリカ植民地では、都市の成長や人口増と結びついた産業構造の変化が起きたため、工業製品への需要が拡大してヨーロッパにとっては製造業の生産・供給能力が求められる貿易環境になっていった。とくにアメリカからの繊維製品に対する需要は、ネーデルラントやイングランドの商人にさらわれ、ネーデルラントやイングランドでの繊維業の急成長を誘導し、その結果、カスティーリャ域内にも安価な域外製品が入り込んできた。こうして、ハプスブルク王朝の帝国政策を財政的に支えた新大陸からの財貨の流入――つまり大西洋貿易による物質的経済循環――が、カスティーリャの経済を蝕み、掘り崩すことになった。
1600年以降、アメリカの各植民地では農業が急速に発展し、造船業と船舶輸送業も成長したため、メヒコ・ヌエバエスパーニャ・カリブ海・ペルーなどの植民地間貿易がブームになった。穀物や食用油、ぶどう酒などはアメリカ域内で自給できるようになった。同時に、植民地にも独自の支配階級(クリオーレ貴族層)が成長してきた。彼らの富の基盤は鉱山業よりも農業経営だった。投資や開発の対象は鉱業から農業に移動した。
というのは、貴金属鉱業は、16世紀にピークを迎えてすでに緩やかに下降を始めていたが、1610年代以降深化した経営危機のなかで、著しく衰退していたからだ。危機の原因は、鉱山での過剰な搾取によってインディオ労働力人口がほぼ絶滅したこと、鉱脈の枯渇で銀産出量が縮小したこと、そして銀価格が低迷した状況では困難に直面してまで事業を続ける利潤が出なかったことであった。都市の成長と人口の増加を背景にして、植民者たちは域内での食糧自給体制を欲していたから、農業への投資には将来性があったのだ。
農業の発展とともに、新世界とヨーロッパとの貿易品目の構成が変化し、主要な植民地向け商品(つまり植民地側の需要)は、エスパーニャが供給できない洗練された工業製品や量産された大衆衣料品などに転換した。貿易構造は、目に見えてカスティーリャに不利益になっていた。これらの製品はネーデルラントやイングランド商人が直接または間接に供給していた。
しかも、植民地で獲得された利潤の多くはいまや植民地域内に再投資され、セビーリャに送られる貴金属地金や貨幣として量は減少していった。そのうえ大西洋貿易では、アメリカ域内業者の船舶輸送のシェアが増大した。そのため、アメリカとエスパーニャとの貿易における輸送貨物量は、1646―50年は1606―10年に比べて60%に落ち込んでしまったという〔cf. Anderson〕。
エスパーニャでは、結局のところ、王権に支援された域内の商業資本が自立的な権力ブロックに結集し、製造業を統制・育成し、そのことによってヨーロッパ分業体系での相対的地位を上昇させていくという仕組みは成立しなかった。ゆえに、アメリカの支配や貿易によってエスパーニャに流れ込んだ財貨は、域内の商業と製造業での成長と資本蓄積には回らず、域外の商業資本と製造業に利得のチャンスを与えただけだった。域内にしだいに蓄積されていったのは北西ヨーロッパに従属する貿易・産業構造だった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成