第4章 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
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ファナは死ぬまでエスパーニャ王位を譲らなかったため、カスティーリャ王位を保有しながらもカルロスは形式上、長らく摂政としてイベリアを統治することになった。フランデルン=ブルゴーニュ公国育ちでカスティーリャ語を解しないカルロスの宮廷では、フランデルン、ブルゴーニュ、イタリア出身の側近が牛耳っていた。しかもカルロスは王位継承後も、カスティーリャ宮廷には留守がちだった。彼は多くの領地の君主を兼任していたから、エスパーニャに常在するわけにもいかなかった。
そのため、イベリアには不在で親近感のないカルロスの統治にともなう増税は、カスティーリャ民衆のあいだに王と外国人高官への反感を植えつけ増幅した。とりわけ、重い税負担を押し付けられた諸都市は、新王の統治に強い憤激を抱くようになった。
1520年、皇帝戴冠式のため王が出国すると、総評議会に代表を送っていた諸都市は反乱を起こした。翌年まで続くこの都市反乱は、コムニダーデス(都市誓約団体)の反乱 rebelión de comunero
/ comunidades と呼ばれた。都市ブルジョワジーは、先立つ好況期に成長し、経済力を蓄えていた。北部・中部の都市富裕商人層が指導権を握り、反乱は当初都市貴族の支持を受け、職人や下層商人からなる民衆が原動力になっていた。諸都市では誓約団 comunida が結成され、王政の支配装置を担っているコレヒドールや市役人(寡頭支配層)を攻撃・追放した。反乱派は聖会議を組織して財政改革、都市特権の保護、フランデルン人官吏の罷免などを要求して、抵抗活動をおこなった。
だが、ブルゴス、バリャドリード、バレンシーアではイダルゴが王側に与して、市政庁を反乱派から守り抜いた。また、農村部や農民には都市蜂起への共感・連帯は見られなかったし、ガリーシア、アンダルシーア、エストレマドーラなどにはこの都市反乱は波及しなかった。摂政ハドリアヌスは、大貴族層の要求に譲歩して王権への支持を取りつけた。反乱が反貴族闘争になるや、貴族は王権による鎮圧行動に加担した。また反乱派の内部も分裂していたため、1521年にはビリャラールで王軍が勝利し、反乱は征圧された。〔cf. 増井実子〕
反乱の敗北の結果、抵抗派勢力は排除されたので諸都市は王権に対抗する自立的な政治力を完全に失い、王は総評議会での都市代表による抑制を受けることなく、さらに無慈悲に財政=課税権力を行使することになった。同じ頃、バレンシーアでは都市手工業者(ギルド)が門閥寡頭支配に抗議して反乱――ヘルマーニアの乱――を起こし、マジョルカ島でも農民反乱が起きたが、結局1523年までには鎮圧された。
その頃カスティーリャに戻ったカルロスは、王権の中央装置の再編に取り組むことになった。1522年には、イベリア諸邦およびドイツ、オーストリアの行政の監督・調整、帝国全体の軍事活動の統括をおこなうために国務会議 Consejo de Estado が創設された――やがて国務会議は帝国の連絡事務機関となり、軍事部門の総括は軍事会議 Consejo Militar がおこなうようになったと見られる。翌年には,
会計諸部局を総括する財務会議 Consejo de Finanzas が設けられた。カスティーリャ会議 Consejo de Castilla
は規模が縮小され、カスティーリャ枢密院 Consejo Real y Suprema de Castilla となった。
このほか、「帝国」の地域ごとの統治を監督する組織として、従来のアラゴン会議 Consejo de Aragon に加えてインディアス会議 Consejo
de Indias が組織され、さらに16世紀の半ばから末にかけてイタリア会議 Consejo de Italiana 、フレンデス(フランデルン)会議 Consejo
de Frandes 、ポルトゥガル会議 Consejo de Poltugal がつくられた。
これらの会議は王権=中央政権の意向に沿って副王を監視し、各地域の情報を王に報告する機能をもっていた。だが、これらの組織はたいてい中央から各地方の行財政装置を統制するというよりも、むしろ会議に参集したメンバーは――各地域出身者であるため――各地域の利益代表として行動したようだ〔cf. Eliott〕。
こうして、統制の取れない多数の諸地方や政治体が寄せ集められていたのは、イベリアだけではなかった。独立の王国をなしていたオーストリアは言うまでもなく、ネーデルラント、ブルゴーニュ、イタリア、サルデーニャなどは、ハプスブルク王朝への服属によってエスパーニャに結びつけられた。だが、これらのヨーロッパ各地の王国や公国、伯領の集合体を全体としてコントロールする統治装置や宮廷装置はなかった。インディアス会議を除くと、上記の諸会議に直属して各王国や各地方の行財政を統制する機関は形成されなかったのだ。
というよりも、カスティーリャに基盤を置くエスパーニャ王権は途方もなく広大な帝国の「盟主」として、地方ごとに旧来からの独自の統治構造を温存し、つまり現地の貴族や領主などの支配階級の(王権から自立した)権限を認め、いわば象徴的な権威を伝達する副王 Virrey を派遣しただけだった。このレジームは、イングランドでは、ずっと小さな地理的規模(国民的規模)で王権が都市や商業資本と結びついて貴族・領主の権力を封じこめ、吸収していった過程と著しく異なる。エスパーニャ帝国に比べればずっと版図が狭いフランスでも、王権は広大な辺境や反抗的な諸地方の征圧にはてこずっていた。
帝国観念と結びついたエスパーニャの王政は、もとより封建制ではないが、私たちが「絶対王政」と呼ぶ統治体制への中途で集権化が止まってしまった政治体というほかない。絶対王政は成立しなかったということだ。
ただし、まったく新たな統治機構として組織されたインディアス会議だけは、それなりに独自の官僚機構を備えていた。王権は、征服者たちの植民事業=富の収奪活動を統制しようとして、それまではアメリカ大陸との貿易・航海事業と植民地経営を管理していた通商院 Casa
de Contratacion を改組して、マドリードのインディアス会議を頂点とする統治機構をつくりあげていった。
当初メヒコとリマに副王が設けられた。副王領には、カスティーリャの高等法院をまねて複数の聴訴院 Audiencia が設置され、植民地の司法と行政を統括し、副王の監視もおこなった。都市集落には強大な権限をもつ市参事会 consejo が置かれ、地方統治を担っていた。先住民人口の多い地方には、インディオ市参事会が置かれ、先住民支配層を温存して先住民社会の統治を担わせた。
また王権は、植民地で独自に聖職者を推挙選任する権限を行使し、王権による植民地経営・統治のための装置として修道院・教会組織を設立した。この権限は、新世界の発見と探検にさいして教皇庁から与えられたものだった〔cf. 宮崎〕。
ただし、カスティーリャによる植民地の統制という文脈のなかでではあるが、征服活動に同行した修道士たちは、戦いに敗れた先住民を征服者の暴力と搾取から守るために、宣教施設を利用したという。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成