第4章 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
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とはいえ、イベリア半島北部では、アストゥーリアス=レオン侯、カタルーニャ侯などのキリスト教君侯権力が成長し――小王国・侯国を形成しながら――、辺境域で軍事的侵攻と植民などを展開し始めていた。こうした圧力を受けて、イスラム支配圏域では、10世紀前葉にアブド・アラフマーン3世はセビーリャなどの地方貴族の自立性を封じ込めをはかって、929年に太守の地位を宣言した。そして、北アフリカの太守=ファティマ王朝から独立し、独自の王朝としての体裁を整えた。この新カリフ王朝はサラゴーサを奪回して域内統合を強め、ビザンツ帝国や神聖ローマ皇帝との外交関係を結んだ。
しかし、後ウマイヤ王朝の栄光は10世紀末には失われてしまった。
10世紀末、カリフが年少であるため導入された摂政制を利用して、アーミル家門がハージブとして宮廷を牛耳り、ついにはカリフの地位の簒奪継承を企図した。だが、そのもくろみはコルドバ民衆の反乱で挫折し、以後、カリフは短期間に交代していき、ついに1031年にはカリフ位は断絶してしまった。
こうしてカリフ王朝の権威は崩壊し、アル・アンダールスは多数のイスラム君侯(群小侯領)が分立割拠する状態になった。そのため、キリスト教諸王権によるレコンキスタを押し止める軍事的・政治的障壁はもはや消え去ってしまった。辺境のイスラム領主や君侯のなかには、勢力を強めるキリスト教王権に服属するものもあった。1085年にはレオン・イ・カスティーリャ王国がトレードを征服した。イスラム君侯たちは、北アフリカのムラービト王朝に支援を求めた。
イベリア半島に進軍したムラービト王朝の王ユースフ・ブン・ターシュフィーンは、アル・アンダールスを支配し、イスラム君侯たちを服属させた。だが、トレードなどの失地の奪回や辺境の再統合はついにならなかった。1118年にはサラゴーサがアラゴン王軍に奪われた。47年にはムラービト朝はムワッヒド王朝に滅ぼされ、アル・アンダールスの覇権はムワッヒド王朝に握られた〔cf. 安達〕。
それにしても、地中海と海峡の両側を北アフリカのイスラム王朝が支配したことで、北アフリカ・地中海・イベリアを結ぶ交易が著しく成長した。
1212年、ラス・ナバス・デ・トローサの戦いでカスティーリャが勝利し、イスラムに対するレコンキスタ運動の優位は決定的になった。地方の群小侯領は次々にキリスト教王権に併合されていった。アンダルシーアに最後まで残ったイスラム君侯は、グラナーダを拠点とするナスル王朝だった。
1232年に成立したナスル王朝グラナーダは15世紀末まで生き延びることができた。それは、14世紀後半から15世紀にカスティーリャ王国とアラゴン連合王国が深刻な危機に直面したことでキリスト教勢力の侵攻圧力が弱まったこと、ナスル王朝が独自の巧みな外交戦略を展開したこと、豪族間の闘争を回避して域内の結集を維持できたこと、ほかの地方でのレコンキスタの圧力から逃れてきたイスラム教徒の移住により人口が増加し、活発な経済活動を営むことができたことなどの諸要因が組み合わされたためだった。
ナスル王朝はカスティーリャ王に臣従していたが、グラナーダ王国領の保全の条件として、カスティーリャ王の封臣としての軍役奉仕、援助と助言、総評議会への参加、パーリア軍税の貢納が義務づけられていた。だから、カスティーリャ王の指揮にしたがって、ほかのイスラム君侯領主を征圧するために軍を派遣することもあった。一方、北アフリカのイスラムのマリーン王朝とも協約を結び、友好を保った。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成
第3節
ネーデルラントの商業資本と国家
――経済的・政治的凝集とヘゲモニー