第4章 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
この章の目次
カスティーリャ王権は、13世紀中葉のアンダルシーア西部の征服で、半島の南岸に大西洋への出口を確保した。この地方は、イタリアとフランデルンを結ぶ貿易航路の中継地として栄え、そこには北イタリア諸都市の商人が集散した。
ところで、15世紀のカスティーリャにおける王権と貴族との争乱のあいだに、ポルトゥガルはアフリカ沿岸を南下して喜望峰回りのインド航路を開拓していた。他方、カスティーリャ王権が海外進出の体制を整えたのは、15世紀末近くになってからだった。それ以後、エスパーニャ王権はポルトゥガル王権と競争しながら、大西洋・アフリカ沿岸に進出した。1479年、ポルトゥガルとのあいだでアルカソヴァス条約を結び、アフリカ北西部からカナリア諸島にいたる勢力圏を確保した。
新大陸航路の発見(1492年)ののち、エスパーニャ、ポルトゥガル、イタリアの船乗りたちがカリブ海方面の探検に乗り出した。1494年にはエスパーニャは、トルデシーリャス条約によって西半球におけるポルトゥガルと勢力圏の再分割を取り決めた。そして、貴金属と奴隷を入手するために、北アフリカ沿岸部への侵略をおこない、メリーリャを征服した。1509年にはオラン、10年にはトリポリを占領した。16世紀になると、エルナン・コルテースがメヒコ海岸に上陸して内陸に向かい、わずか2年でアステカを滅ぼした。その約10年後には、フランシスコ・ピサーロが南アメリカ大陸に侵入してインカを滅ぼした。
征服者 conquistador の多くは所領をもたない下級貴族で、エスパーニャで最も貧しい地域の出身者だったという。彼らの仕かけた戦争と暴力、征服後の苛酷な搾取はもとより、ヨーロッパからもち込まれた疫病が、征服された先住民の人口を奪っていった。征服と支配は先住民の社会制度や価値体系を破壊し、彼らの生活と精神を荒廃させた。そこに苛酷な搾取と虐待が加わり、身体の抵抗力が衰弱していたから、疫病はまたたくまに蔓延したのだ。
そのため、たとえばアステカでは、16世紀初頭に1100万だった人口が1600年には約100万へと激減したという。ヨーロッパ文明による民族絶滅 genocide という破壊作用の第一歩だった。
征服者には、王のために領土を拡大した成果への報酬として、征服地と、キリスト教化することを条件に先住民が労働力として与えられた。征服者たちは領主として、隷属した先住民を搾取する所領 hencomienda の経営をおこなうようになった。エンコミエンダは、
ヨーロッパでの消費に向けた特産物の生産をおこなうプランテイションや鉱山経営で、奴隷制労働にもとづいていた。
富と名誉への異常な欲求に駆られて征服をおこない支配地(所領)を手に入れた者たちは、エンコメンデーロ hencomendero と呼ばれ、農園や鉱山などの植民事業のために先住民を酷使した。虐待ともいえる使役によって先住民人口が絶滅すると、今度はアフリカ大陸の原住民を奴隷として連れてきて、搾取することになった。
福音伝道の理想を求めて征服者に随行してアメリカに渡ってきた修道士たちは、こうした先住民社会の惨状を目にして、征服者=植民者を糾弾し、本国王権に向けて先住民の保護をくりかえし訴えた。1542年には、インディアス新法が公布され、先住民の奴隷化とエンコミエンダの段階的廃止を求めた。
だが、法規定上、インディオを植民者と同等の臣民として扱った――法文上は先住民の権利を保護する先進的な内容だった――王権のねらいは、先住民の保護よりも、植民者が封建領主化して自立することを阻み、植民地経営を王権の権威によって統制することだった。ゆえに、エンコメンデーロ(所領経営者層)が蜂起するや、王権はいともたやすく譲歩した。それでも、王権は植民地の経済活動を統制するための政策を取り続けた。
エスパーニャはチリ、ペルー、メヒコ、グァテマラ、コロンビアに植民地を形成した。ウォラーステインによれば、これらの植民地は王権によって全体としてヨーロッパとエスパーニャ経済の従属的補完物と見なされたという。しかし、カスティーリャ王権には新世界で大がかりな官僚機構をつくりあげるほどの行政的力量はなかったので、エスパーニャ人植民者の統治を認め、その統制下に原住民の首長を政治機構に組み込んで協力させるという方法を取るしかなかった。
名目上、征服したアメリカの土地は王室領地で原住民は王領地の臣民とされた。だが、本国の王権は植民者を包括的に統制する力能も行政装置もを欠いていた。そこで、定住者たちの忠誠を取りつけるために、王権は植民地運営では多くの譲歩を余儀なくされた。
とはいえ、植民者の側でも、エスパーニャ本国との貿易にイングランド人やネーデルラント人が暴力的に割り込んで利潤を蚕食するのを防ぎ、インディオやアフリカ人奴隷の反乱を抑圧するためにも本国王権の支援が必要だった。それゆえ、定住者たちは、王権や通商院、副王の官僚に不快感を抱きながらも、全面的な自治権を確立することはなかったという〔cf. Wallerstein01〕。
だが、統治の常として、特権を与えられた現地の統治階級が周辺地域で自らの権益を囲い込もうとする傾向――域内植民地化 inner colonization ――は避けられなかった。メヒコの植民者はペルーを「植民地化」した。メヒコは人口が多く、またペルーとのあいだには物価水準の格差があった。メヒコは工業製品や奢侈品、奴隷などをペルーに輸出し、貴金属と水銀を受け取った。
フィリピン諸島がエスパーニャの貿易網に編合されると、メヒコのクレオーレ criollo ――植民地生まれのエスパーニャ系住民――はマニラとリマ(ペルー)のあいだに中継貿易を組織して、マニラとマドリードのあいだの貿易を奪い取り、利ざやを貪った。マニラ経由でペルーに中国商品を運ぶメヒコの中継貿易は、植民地貿易の基幹ともなった〔cf. Wallerstein01〕。こうして植民地間の社会的分業、つまり支配=従属関係ができあがった。
アメリカ大陸は職のないエスパーニャ人に職を与え、不況のなかであぶれた過剰人口を吸収した。この過剰人口のなかには、小金を蓄えた在郷騎士階級で出世欲がりがりの官職あさりも多かったので、王権としては植民地行政装置の拡大のために官僚のポストを売りつける格好の機会を得た。売官は、王室財政にとっても直接の収入源となった。官職購入や渡航費に出費を強いられた新任の行政官たちは、任地で権限を利用して利権あさりに奔走した。
富裕な植民地人のなかには、新任行政官に金を貸して下級ポストを得て、原住民を直接支配する権限を獲得する者もいた。植民地では、官僚機構の役人や所領経営者たちの家政使用人の増加で、土地支配に寄生する人口が増えた。だが、住民共同体を破壊され、奴隷化されて収奪・酷使を受けた原住民の人口は激減してしまった。
やがて旧来の所領経営がいきづまると、アシェンダ hacienda と呼ばれる農園経営が出現した。アシェンダは、植民地の諸都市での消費に向けた穀物や家畜を生産する大規模所領で、隷属的なインディオを労働力としたが、労働管理の形態は奴隷制ではなく、移動の自由のない特殊な賃労働制だった。インディオは、人格的・身分的隷属の状態に置かれているというよりもペオナーヘ
peonaje と呼ばれる「債務奴隷」だった。
アシェンダ経営の成長とともに、植民地のエスパーニャ人社会には新たな有力家系が台頭してきた。新たな農業経営の成長は、植民地でもある程度の都市化――商業と製造業の発達や人口の集積――が進み、アメリカ大陸規模での社会的分業にもとづく貿易体系が形成されてきたことを意味した。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成