第4章 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
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エスパーニャでは、王権による王国の統治は特異だった。
貴族たちの自立的な地方権力を解体・吸収して王政統治機構に統合するという形の集権化は実現しなかった。域内でただ1つの王権だったにもかかわらず、絶対王政というべきものは成立しなかった。代わりに、エスパーニャ全域でカトリック教会と異端審問制度が支配装置の一環として機能していた。教会組織・権力の介入や異端派の弾圧は支配の通常手段になっていった。異議申し立てやヨーロッパ全域での宗教紛争に過剰反応したローマ教会は、同盟するエスパーニャエ王権の統治にも過剰な危機意識と対抗策をもち込んだようだ。
民衆の怨嗟のはけ口は、支配装置・弾圧装置としての教会ではなく、異端派や異教徒に向けられ、教会や王権はそうした民衆心性をさらなる抑圧的な統治の補強手段として利用した。16世紀後半から、王権は宗教的・文化的な異議申し立てや異端に対して強硬な抑圧をおこなった。
プロテスタントへの異端審問、外国書物の輸入禁止、カスティーリャ顧問会議による出版活動の検閲審査、域外遊学の制限などがおこなわれた。宮廷ではエラスムスの思想に共鳴する多くの知識人が異端審問で弾圧迫害された。グラナーダのモリスコたちは、16世紀はじめから何度も出されたカトリックへの改宗を強制する王令に反発して、1568年に大規模な反乱を起こした。2年後、王権はモリスコを鎮圧し、彼らをカスティーリャの各地方に強制移住させた。
統治における宗教的な偏狭は、域内の経済活動の勢いを削ぎ取り、客観的にはエスパーニャの分裂要因として作用した。狂信的なカトリック思想や聖職者の影響下で、官吏や軍人はイスラム民衆の信仰と習俗を守るモリスコに対する敵対意識を増幅させ、王権のモリスコ政策はさらに偏狭なものになっていった。17世紀初頭には、宗教的圧迫を受けて追いつめられたモリスコのなかに、フランスの扇動を受けて、トゥルコの攻撃に呼応して反乱を企てた者もいたという。こうして、1609年から14年にかけてモリスコ追放令が出され、バレンシーアとアラゴンを中心に約30万人がエスパーニャを追われた。
たしかに域内の宗教をローマカトリックで統一したことによって、のちの宗教改革=宗教紛争の殺戮と破壊、混乱の原因を取り除くことにはなった。だが、それによって域内の政治的統合への道を切り開いたわけでもなかった。残されたのは、カスティーリャの経済的損失・打撃だけだった。
さて、コンベルソとモリスコの追放・移住は、すぐれた技術と勤勉さを備えた職人、商人、農民だった人口の喪失をもたらした。それは、バレンシーアとアラゴンにも深刻な経済的打撃を与えたという。
フェリーペ2世はアラゴンへの支配を強化するため、アラゴンの貴族所領での農民闘争に介入し、あるいはカスティーリャ貴族をアラゴンの副王に任命しようとした。しかし、アラゴンの域内法などの法慣習に反する王権の政策には反感が広がった。
1590年には、殺人容疑で王権から訴追されたアラゴン出身の国務尚書官アントーニオ・ペーレスを支持する民衆蜂起が起きた。王はサラゴーサに軍を派遣して反乱を鎮圧し、アラゴン大審院長官ファン・デ・ラヌーサを処刑した。その後、フエロを盾に取ったアラゴン特権的諸階層の抵抗は弱体化したという〔cf.
増井実子,op. cit.〕。まだこのときは、都市下層民衆や農民は都市貴族や領主の抑圧が緩和されたのを喜んだくらいで、カスティーリャへの反感はなかった。
だが、エスパーニャ諸地方の統合は成功したのだろうか。
カスティーリャでは王権による集権化はある程度成功していたが、王権の優越といっても、王領地ですら貴族・上級聖職者への課税免除があって、制約つきだった。都市と商人は租税や賦課金の負担を負わされ、そのツケはさらに小商人や職人などの下層民衆に転嫁されるのだった。成功した商人層は、官職とそれにともなう爵位を買い入れてさっさと商業から引退し、免税特権や年金を手に入れて貴族の生活に入り込んでいった。だから、貴族に対抗しながら、都市と商業の特権を王権に認めさせる――イングランドやフランス北部に見られる――勢力は形成されなかった。
カスティーリャでも有力貴族の所領への王権の介入・浸透は進まなかった。王は最大・最上級の貴族で、カスティーリャ領土の最上位の支配者ということにはなっていたが、地方での統治は貴族の家政装置による独自の統治に委ねるしかなかった。王権は貴族たちの所領における統治のリスクとコストを負わなくてもよかったとはいえ、それらの所領の収入にも手をつけることができなかった。
王権はいまでは後ろ向きになった「帝国」統治観念を、カスティーリャの上級貴族に対しても、アラゴン諸地方に対しても、墨守していた。ポルトゥガルやアラゴン、カタルーニャ、バレンシーアについては、それぞれ単独の王国としてのレジームをそのままにして、単一の君主権(カスティーリャ王権)に臣従させてきた。それらは法観念上、王と個別に臣従関係を取り結んだだけで、それら王国相互間での政治装置や行財政機構の融合や調整はおこなわれなかった。
つまりそれらの圏域のあいだに横断的制度はなく、王座にいる人格と別個に臣従関係を形成しただけなのであった。王が代われば、新たにこの契約を結びなおさなければならなかった。その臣従の条件としては、当然のことながら、各圏域における既存の法と慣習、統治制度を尊重するということだった。王位の継承者は、旧来的な統治手法の継続、つまり各地方王国の法の尊重を宣誓して王座に登ったのだ。イベリアの面積は広大だったし、隣国フランスでは王権が強引に統合しようとしてすら、諸地方の分立化傾向は抑えきれなかったのだから、この点に「寛容」なエスパーニャ王権のもとではなおさらのことだった。
17世紀中も、エスパーニャの域内では財政的疲弊と政治的分裂が進んでいた。摂政オリバーレスは戦費調達のため、王権に従順なカスティーリャの総評議会に新たな課税を認めさせたうえに、都市や商人団体にも名目を見つけては賦課金を上乗せした。この政策に対する異議申し立てや反論も、厳しい抑圧で封じこめていた。だが、カスティーリャの疲弊が目立ってくると、これまでは負担を避けてきたイベリアのほかの諸王国に負荷を分担させるほかなくなった。財政的集権化のためには、政治的集権化・統合が条件となる。
その意味では、オリバーレスの発想は理論的には正しい方向を向いていた。改革案は、ポルトゥガル、アラゴン、カタルーニャなどの領土を単一の王権の直接的支配に組み入れて、統一的な行財政制度を築いて税負担を分散し、カスティーリャを重税から解放するはずだった。公債で集めた資金を王室の負債を軽減していく財源(減債基金)とするために、政府の銀行を設立するという発想は、ネーデルラントよりも進んでいた。
1624年にオリバーレスは、連合予備軍 union de armas の創設計画を表明した〔cf. Vincent / Stradling〕。アラゴンやカタルーニャ、ポルトゥガルに一定の武装兵員(ということは、つまり装備や食糧、戦費も)を割り当てて徴募するというものだった。それは、これらの地方圏域の権利を縮小して中央の統制に服させるものだったから、反発と抵抗は不可避だった。1640年代には、各地方で反乱が続発し、43年にオリバーレスは罷免された。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成