第4章 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
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14世紀中葉からイベリア半島にも深刻な危機が訪れた。1348年、カタルーニャをペストが襲った。翌年にはペストの惨禍はカスティーリャにおよんだ。疫病はくり返しやってきたため、15世紀までにカタルーニャの人口のおよそ35~40%、カスティーリャの人口の15~20%が失われたという。疫病による人口減少の程度は、イベリアでも地方ごとに異なっていたが、人口減少による危機への対応と結果も地方ごとに異なっていた。
全般的傾向として、衛生条件が悪い都市部で病死者が多かったので、農産物・食糧に比べて手工業者の賃金と手工業製品価格が相対的に上昇した。そのため、生産性の低い小土地を耕作する農民たちが農村を捨てて都市に流れ込んだ。その意味では、都市の成長は危機への反応だった。条件の悪い辺境ほど、逃散する農民が多かった。富裕な農民や都市の有力者たちは、放棄されあるいは捨て売りされた土地を集積した。だが、定額貨幣地代にもとづいていた修道院などの領主経営は、農民流出と耕作放棄によって大きな打撃を受けた。その結果、それらの所領では粗放経営や放牧地が拡大した。
とりわけカタルーニャでは、疫病が蔓延したため人口の回復が遅れ、14世紀後半から15世紀をつうじて農業および商工業の停滞が続いた。そこに地中海貿易の構造転換――カタルーニャ商人とバルセローナの地位低下――が加わって、危機は深刻化した。14世紀末葉からは、オスマントゥルコがバルカン半島、小アジア、北アフリカを席巻したため、トゥルコの圧力を受けて、北イタリア諸都市の商人たちの活動領域は地中海西部にシフトし、イベリア・北西ヨーロッパ・北西アフリカの交易をめぐる競争が激化したのだ。15世紀中葉からは、バルセローナを軸心とする地中海貿易も衰退し、イタリア商人の権力に従属するようになっていった。
カタルーニャ商人はそれまで、北アフリカへの毛織物や鉄、手工業製品の輸出で得た資金をもとに、エジプト方面で香辛料を買い入れてヨーロッパに転売し巨利を手にしてきた。だが彼らは、ジェーノヴァやヴェネツィア商人の進出やポルトゥガルによる大西洋岸アフリカ航路、インド洋航路の開拓によって、競争に敗れつつあったのだ。
おり悪しく、王室財政の危機に域内商人の金融危機が連動してしまった。皮肉なことに、発端は王室アラゴン家によるシチリア=ナーポリ王位の獲得だった。1411年にトラスタマラ家傍系のフェルナンドがアラゴン王位とともにシチリア=ナーポリ王位を継承し、次王アルフォンソ5世は42年にナーポリ王位を獲得した。だが、アドリア海を挟んでバルカン半島と向き合うナーポリ王国の統治は、バルカン半島と東地中海に勢力を拡大していたオスマントゥルコとの抗争に結びついた。そのため軍事出費が増大し、王室財政は悪化していった。
しかも、ナーポリでは地方領主たちが王領地や王の徴税権を切り取っていて、ナーポリの王室収入はやせ細っていた。ナーポリ宮廷の経営と戦費調達のために、14世紀末にアラゴン王室とバルセローナ市当局は、カタルーニャ人とジェーノヴァ人金融業者から高利の短期融資を受け、年金償還方式の公債を発行した。だが、まもなく両王室ともに財政が破綻し、支払い停止に陥った。商人も王室と同じバルセローナの金融市場で資金調達(返済と借入れのくり返し)をしていたから、王室の支払停止によって信用危機が生じ、資金力の弱いバルセローナの金融業者の破産が相次いだ。そして、カタルーニャの貿易と金融では、ジェーノヴァ人が、相対的に衰退していくバルセローナ商人に取って代わっていった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成