第4章 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
この章の目次
ところで、カスティーリャでの王権による秩序形成の特殊性の1つは、王権と教皇庁との独特の結びつきを背景として、カトリック教会組織の人事を決定する権限を獲得し、異端審問制度という独特の支配装置を包括的に社会に介入・浸透させたことである。異端審問裁判所
Tribunal del Santo Oficio de la Inquisicion ――より正確に訳すと聖務審問法廷――は、やがてエスパーニャ全域で機能する国家装置となった。
異端審問裁判所は1478~1480年、まずセビーリャに設置され、やがてカスティーリャとアラゴンの全域に拡大された。アラゴンやカタルーニャでは、裁判権や警察権をともなう異端審問制度の浸透は、在地貴族層・聖職者がカスティーリャ王権の介入だと見てはじめは抵抗したが、結局押し切られた。
異端審問の当初の目的は、ユダヤ教徒やイスラム教徒をキリスト教に改宗させ、その後の改宗者(コンベルソやモリスコ)の信仰生活を監視することにあったという。だがのちには、もとからのキリスト教徒、とりわけ聖職者の宗教的・倫理的逸脱や堕落、腐敗を監視し、取り締まることに変化した。異端審問裁判所は王権に直属し、審問官は王権によって任命され、大きな権限を持った。
異端審問法廷はいわば「劇場的・視覚的効果」を持つ政治的・イデオロギー的な行事――見世物――として大々的に催され、多数の民衆を動員し熱狂させた。とりわけ「信仰行事
auto de fe 」と呼ばれる大がかりな儀式において有罪判決を受けた異端者が焚刑に処せられ、摘発・処刑された異端者の財産は審問裁判所と通報者とのあいだで分配されたという。
異端審問制度は、レコンキスタ終了直後はキリスト教への改宗の強制、モリスコやコンベルソの監視を主務としていたが、やがてキリスト教住民の宗教的逸脱とカトリック王室の権威への異議申し立てを抑圧する政治的・イデオロギー的役割を担うように(つまり治安装置に)なった。また、高位聖職者層の生活規律や態度を厳格に監視する制度として機能したため、イタリアやフランス、ドイツなどでのようなローマカトリック教会の腐敗や堕落を防ぎ、エスパーニャでは一般民衆のカトリック教会への批判や忌避を避けることができた。
もちろん、異端審問制度の展開には、残酷な拷問や処刑、過酷な弾圧と抑圧、民衆の衆愚的煽動、密告や相互監視など、無数のおぞましいできごとが執拗につきまとっていた。
だが、このようにエスパーニャは、王権が直属の国家装置としての宗教統制組織=異端審問制をこの時期につくってしまったので、のちの宗教改革による域内の分裂と殺戮戦を経験することはなかった〔cf. Vincent / Stradling〕。
やがて異端審問制度は、エスパーニャ王権がネーデルラントなど域外諸地方を領地とするようになると、そこでの反乱を抑圧し取り締まるための装置として機能することになる。
以上のことから、王権による集権化と政治的統合のための制度や手段として、教会組織の統制または再編成がきわめて重要な政策となるという傾向が確認できる。
エスパーニャでは異端審問制度がイベリアの文化的・政治的統合のための手段として機能した。フランスではヴァロワ王権による集権化政策の一環として、13世紀に教皇庁と連携して「アルビジョワ十字軍」運動が展開され、15世紀には「ガリカニスム」――フランス=ガリアの教会・修道院組織の人事を王権に服属させる運動――が展開された。
イングランドでは16世紀に、これまた王権による教会・修道院組織の支配とその財産の収容のためにアングリカン教会の創設と「宗教改革」運動が推進された。これは国民国家的な統合の決定的な契機となった。聖典や教会法典をイングランド語に置き換える活動は、政治的的・文化的装置として国民的言語を形成普及させる重要な契機となった。
こうして、王権による教会・宗教組織の統制ないし再編成が、国民的言語の形成と相ともなって、国民的・政治的統合のために本質的に重要な政策となってきたことが理解できる。
集権化と言語
カスティーリャでも王権による集権化には、国民的言語の意識的な形成と普及がともなっていた。1492年、ラテン語学者のアントニオ・デ・ネブリーハはカスティーリャ語の文法書を女王に献上し、エスパーニャの公用語としての普及を進言した。彼は「ことばは、政治的支配の最も重要な道具である」と述べたという〔cf. Vincent / Stradling〕。カスティーリャ語はやがて、エスパーニャの国民的統合で決定的に重要な文化的・イデオロギー的・政治的機能を果たすようになった。
それまでイベリアでは、たとえば北西部ではガリーシア語、北東部ではバスコ語、東部ではカタルーニャ語、南部ではアラビア語などが広く使われていた。公用語としてのエスパーニャ語の制度化と教育は、王国の言語的・文化的統合の決定的な方法となった。
とはいえ、エスパーニャ語すなわちエスパーニャの国家的=国民的言語となるべき言語は、19世紀までにはカスティーリャ=レオンならびにバレンシーア、アンダルシーアのほぼ全域とアストゥリアス、アラゴンの一定部分には広く普及したが、バスコとカタルーニャ地方には普及しなかった。そして、その後現代にいたるまで、このエスパーニャ語(公用語)文化の普及の限界が、そのまま国民的統合の限界――政治的国家的分裂=不統合の深い溝――を表している。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成