第3章 都市と国家のはざまで
――ネーデルラントの都市と国家形成――
第3節 ネーデルラントの商業資本と国家
この節の目次
ネーデルラントは、ヨーロッパの大衆消費財としての食糧を供給する能力が飛び抜けていた。まず漁業と農業での生産能力の優位――それは、まさに商工業との直接的な結びつきによって獲得された優位なのだが――について見てみよう。
ウォラーステインによれば、生産面でのネーデルラントの高い効率は、なによりもまず食糧生産としての漁業および海産物加工で達成されたという。その生産物とは北海の塩漬け鰊だった。鰊漁での生産性の上昇は、漁船と漁法の優秀性によって支えられていた。しかも、すぐれた魚の加工技術と輸送体制がともなっていた。
17世紀のネーデルラントの大型平底船(W.ホラーの版画 1647年)
船体の幅に比べて縦が長く、操船しやすくて、波の荒い北海での難航海に耐え、荷を積むスペースをあまり犠牲にせずにスピードが出せる
haringbuis という帆走漁船の発明と巨大な引き網の使用――つまり造船および漁具製造技術の革新――によって、ネーデルラントの漁師たちは漁獲量を飛躍的に増大させた。
鰊の加工技術については、広い甲板をもつ船上で捕獲した魚の内臓を抜き、塩漬けにすることで、保存が容易になった。この技術は、すでに13世紀に開発されたものだという。その産物を買取人の高速船―― ventjager という大型平底船――に売り渡し、後者は大急ぎで陸地に運んだ。これまたすぐれた造船技術と商人経営の革新と結びついていた。そのため、漁船は6~7週間も沖合い漁場にとどまることができたという〔cf. Wallerstein04〕。
このほかに、アイスランド沖の鱈漁、スピッツベルゲン沖の鯨漁が目を引く。ことに鯨は、食用肉としてだけでなく、石鹸・ランプ用油脂、女性の服装などの生産のための工業用原料としてもヨーロッパ中できわめて大きな需要があった。
こうした海産物の生産能力が貿易競争での優位に結びつくためには、海産物を一方では消費財として大量に速く各消費地の近くまで輸送する能力、他方ではマニュファクチャー向け原料としてヨーロッパ各地の製造業に供給する経路を創出し掌握する能力が必要であった。つまりは、ヨーロッパ貿易において流通を組織するネーデルラント商人の力量=権力が物を言った。この能力が、漁業・海産物加工での生産能力の上昇をムダなく吸収したのだ。
13世紀頃、ネーデルラント北部は、水面よりも低い土地を人工的堤防でかろうじて浸水から防いでいる貧弱な地方の集まりに見えた。そこには所領直営農場で農民を使役している貧弱な小領主
jonker がいた。フローニンゲン州とフリースラント州には、土地保有農民がいた。レイデンには自由保有地で集約的に野菜や果実を栽培する農家がいた。手のかかる干拓でつくり出したわずかな土地空間しか利用できなかったので、牧畜と耕作では集約的に生産性――高密度の土地利用――を追求するしかなかった。だから早くから農業は園芸――細かく手を入れる技術集約的な栽培や育種など――に特化し、野菜などの輪作栽培農法を開発したから、ヨーロッパのほかのどの地域よりも農業の生産性は高かった。
ネーデルラントの農業での生産性の優位は、商業および工業との直接的な結びつきに支えられていた。そこでは早くから、干拓によって土地をつくりだすために水を汲み上げる風車小屋が発明・利用された。それは、風車の回転を動力として作業機械に伝達する――歯車やクランクなどを組み合わせた――木製機械の工学技術の発達を意味していた。それは、ただちに造船業や繊維産業での作業の機械化に結びついていった。また干拓した土地の改良や排水・給水設備などの技術革新も進んだ。ここでは、はじめから農耕が工業と密接に結びついて発展したのだ。
そして、土壌の性質からして三圃制農耕による穀物生産と集住村落は発達せず、散居型村落ができあがり、自立的な個別家族経営による牧畜や飼料作物・野菜・果樹・花卉などの商品作物の栽培が成長していた。ごく早い時期から、比較的狭い耕地から収益を引き出す集約農業に移行していたわけだ。このような動きが、すでに14世紀はじめまでに見られた。しかも、近隣には多くの都市集落が成長していた。
分散的に居住する農民による自立的な経営、それが市場を指向していたこと、ゆえに領主層による所領経営に封じ込められることなく、商工業と連動して成長していったことが、ネーデルラントの地方的個性だった。農村は都市と接触するうちに商業化し、住民の穀物消費量の半分は外部から買い入れ、もっと収入の多い園芸および原料用商品作物を栽培するようになっていった。そして絶えざる栽培技術や品種の改良、新作物の導入をめざすようになった。
やがて17世紀以降には、工業用原料作物つまり、麻、亜麻、ホップ、園芸作物(花卉・果実など)、染料用作物(大青・茜など)の栽培、酪農に集中するようになった。農業技術と経営形態の改良によって、労働力の集中的投入、飼料作物の栽培と蓄牛の糞尿を利用した組織的な施肥、牛乳やチーズなどの乳製品の生産、そして市場に敏感に反応する園芸(果実や花の栽培など)がおこなわれるようになった〔cf. Wallerstein04〕。このような農業での特化と集約化は、他方で大規模な穀物輸入が組織されていたからこそ可能になったものであった。
こうして、早くから農民の経済生活が商品経済に組み込まれ、彼らは商品作物を生産するとともに、彼ら自身が衣料や食糧などの消費財に対する大きな需要源をなしていた。いずれにせよ、このような変革は、商業による農業の包摂を意味する。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成