第3章 都市と国家のはざまで
――ネーデルラントの都市と国家形成――
第3節 ネーデルラントの商業資本と国家
この節の目次
東南アジア諸島は、極東の中国・日本などと南のインドを両極とする広大で多様な通商網を結びつける《主要な連結環》をなしていたので、VOCはこの貿易の交差点を制圧し監視するという目標を追求することになった。17世紀初頭のアジアで、ネーデルラントは貿易拠点を永続的に掌握するため、競争相手に打撃を与え、各地に要塞を建造し、植民するという戦略に乗り出した。だが、東南アジアに貿易拠点をつくりあげるためには、一方では、すでに発達した商品貨幣経済システムを築き上げていたアジアの交易体制、ことに通貨交換システムに適合しなければならず、他方ではアジア経済とインド洋を抑えていたインド亜大陸との関係を安定させなければならなかった。そして、この浸透作戦にはポルトゥガルの権益を掘り崩すための闘争がともなっていた。
発達した独自の貿易圏を形成していたアジアには、それぞれの地方・地域に早くから独自の通貨システムが発展していて、通貨相互間の交換メカニズムがはたらいていた。ヨーロッパ人たちは、その内側に入り込むために、それぞれの地域の必需品を調達し、それと現地の香料・特産物とを交換しなければならなかった。また多角的な通貨交換システムに割り込むためにも、アジア域内での貿易をつうじて金属貨幣を調達しなければならなかった。こうして、VOCは、アジアの特産品貿易の動きを見ながら、たえず変動する通貨相互の交換比率をにらみ貨幣獲得の政策を修正しなければならなかった。
他方、喜望峰から東南アジアまでのインド洋=アジア世界貿易圏を制圧していたインド――ムガール帝国と周辺の諸王朝――との直接の通商関係を開かなければ、東南アジアでの経済的優位は確保できなかった。というのも、スマトラ島などでは胡椒はインドの織布と交換されていたからだ。布地をアジアの各地の交易市場での購買をつうじて間接的に手に入れる方法では、決済手段としての銀の流出が大きく、利益は期待できなかった〔cf. Braudel〕。やはり、法外な利潤を得られるように独占するためには、市場を政治的に支配するか、それとも生産過程(生産者)を支配するか、いずれかの道を追求するしかなかった。
VOCは17世紀初頭から、インドに押しかけ始めた。1606年、スーラートへ乗り込んだが、定着して交易権を獲得するのに十数年かかった。1638年には肉桂を求めてセイロン島に地歩を築き、56~61年にかけてポルトゥガル勢力を駆逐しながら植民地化を推し進めた。インド亜大陸では65年にポルトゥガルの拠点コーチンを攻略した。とはいえ、局地的な交易拠点の獲得がせいぜいのところで、内陸部への浸透にはいたらなかった。ネーデルラントのアジア戦略の中軸は東南アジアと東アジアに限られていた。
1619年にはジャワ島にバタヴィア市が創設され、東南アジアにおけるネーデルラント商業資本の権力と商取引きの管理機能がそこに集中された。そして、バタヴィアと「香料諸島(モルッカ)」との連絡網を結節点として、商取引き・交換のネットワークをつくり上げ、それがやがてネーデルラントの植民地を形成することになった。1616年には日本の幕府との間で通商協定を結び、39年以降、徳川幕府はネーデルラント以外のヨーロッパ諸国との貿易を禁止した。1624年には台湾に行き着き、植民地化への足がかりを得た。
1641年にはマレー半島のポルトゥガルの拠点マラッカを攻略し、ポルトゥガル勢力の衰退を余儀なくした。1667年にはスマトラ島のアチェ王国を服従させた。1669年にはマカッサル諸島を制圧し、82年にはジャワ島バンタムを陥れた。こうして、東南アジアではポルトゥガルの通商植民地ネットワークを16世紀末から少しずつ侵食して、半世紀かかってついに崩壊に負いこんだ。だが、その途端、こんどはイングランド(東インド会社)の攻撃と向き合うことになった〔cf. Braudel〕。このときまでに、イングランドは世界市場を暴力的に掌握するのに適した国家形態と独占会社を築き上げてきていたのだ。
海洋権力と貿易独占
海洋の軍事力は、軍事的威圧や戦力の行使によって制海圏域における貿易独占の体制を構築するための決定的な手段だった。ネーデルラントの商人団体(VOC)は、17世紀にインドネシア地域に香料・香料を求めて進出し、やがて海軍力を駆使して競争相手を次つぎに排除し、現地勢力を屈服させていった。17世紀後半には、カリマンタン島を除くインドネシアの大半の海域で貿易独占体制を構築し、「海の植民地化」を達成した。
17世紀頃、インドネシア地域の胡椒取引の中心地は、ジャワ島西部のバンテン地方とスマトラ島西北端のアチェだった。バンテンは王国をなし、海峡をはさんでスマトラ島南東部のランポンやシレバールという胡椒産地のまで支配をおよぼしていたという。バンテンには、スマトラ島のジャンビやバレンバンからも中国人商人によって胡椒が供給されていた。ジャンビやバレンバンも小王国を形成していた。
VOCは、香料を得るためにバンテンならびにアチェと取引きを結んでいたが、より有利な調達先を求めてスマトラ島南東部に進出した。VOCがやがて交易ならびに軍事上の拠点として建設することになるバタヴィア市は、バンテンの北部に位置する。
ジャンビには1615年商館を設置し、胡椒取引の独占をねらったが、ほぼ同時に競争相手のイングランド東インド会社(EIC)も商館を設置していた。それまで、ジャンビの胡椒は中国、マレー半島、ジャワ島などに輸出され、取引相手は中国人、ポルトゥガル人、ジャワ人だった。
VOCは胡椒貿易の独占をはかるために艦隊を派遣して、ジャンビで胡椒を買い付けた外国船に対して入手価格で譲渡するように強要し、拒絶された場合には公海に出たところで船舶を襲撃し、最高でも1ピコル当たり4レアルまでしか支払わずに強制的に買い上げた。ほとんど私掠に等しかった。1619年にバタヴィアが建設されると、VOCはジャンビに来航する外国船にバタヴィア寄港を強要し、バタヴィアに胡椒を運ばない船舶を襲撃して、胡椒を強制的に安価に買い上げた。
ホラント人は、このような香料の調達方法を自ら「私掠(海賊)方式」と呼んでいたらしい。
そのため、1620年頃には、ジャンビにはVOCとEIC以外の外国貿易船は来航しなくなってしまった。ジャンビ王とVOCの利害は対立することになった。
だが、イングランド商人の駆逐には失敗した〔cf. 鈴木〕。
このように、海洋権力の優位ににもとづいて貿易独占体制あるいは貿易での優越を築き上げる政策は、やがてより洗練され系統化され、17世紀後半、イングランド王国による航海諸法レジームとして登場する。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成