第3章 都市と国家のはざまで
――ネーデルラントの都市と国家形成――
第3節 ネーデルラントの商業資本と国家
この節の目次
ネーデルラント総評議会と地方総監
15世紀にブルゴーニュ家はフランデルン、ホラント、ゼーラント、ユトレヒト、ブランバント、エノーなどネーデルラント全域に君侯統治権をおよぼし、ことに課税への承認を在地の領主貴族や都市団体などの諸身分から取り付けるために総評議会を召集し、各州に評議員(身分代表)の派遣を要請した。総評議会召集の実務は、ブルゴーニュ公の代理としてネーデルラントに常駐してその全域の統治活動をおこなう地方総監
Landvogt が担った。
地方総監は、各州 Land にブルゴーニュ公から任命・派遣された州総督 stadhouder の上に立つ名誉官職で、州総督を監督する役割を期待されていた。だが、州総督を指揮監督する具体的な手続きや権限はなかったようだ。
しかし、実効的な統治装置は各州ごとに組織されていて、たとえばホラントの州総督はホラント伯位をもつブルゴーニュ公の代理、すなわち領邦君侯として機能していた。実際の税賦課への承認の取り付けは州評議会ごとにおこなわれていて、各州から総評議会に派遣された州代表は、全面的な委任拘束を受けた代表であって、評議内容に関する自主的な判断や決定をおこなう権限を与えられていなかった。
総評議会(絵画):ネーデルラント王国議会博物館所蔵
ブルゴーニュ家断絶後もこの2つの制度はハプスブルク王権に引き継がれた。そして、ハプスブルク王権はネーデルラントでの課税権強化をねらって地方総監の権限を強化し、在地貴族や都市団体の権利を制限しようとした。エスパーニャ王権は、ネーデルラントの在地勢力にはさしたる軍事力がないと見て、個々の州評議会の協賛や同意を得ることなく、総評議会を威圧して同意を調達し課税権の拡大を推し進めようとした。
ここには、エスパーニャ王権とネーデルラント反乱諸州との軍事的闘争のなかで偶発的に生じた「逸脱現象」として、中世以来の権力の地方分立性を部分的に克服して統一的・中央集権的な権力構造を形成しようとする傾向が見られる。とはいえ、エスパーニャ王のカールやフェリーぺ2世は近代国家の形成をめざしていたわけではない。彼らは、ホラント州にはホラント伯として、フランデルン州にはフレンデルン伯として、ブランバント州にはブラバント公として君臨し、個別に統治しようとしていて、そのために州総督を任命派遣していた。
ハプスブルク家門は、すでにブルゴーニュ家が召集・設立していたネーデルラント総評議会を課税重加のための法的便宜として利用しようとしただけだ。エスパーニャ王室の財政破綻によってやむなく、先の見通しもないまま力づくで集権化に奔ったにすぎない。だから、ユトレヒト司教の権力を借りて異端審問裁判を強行し、アルバ公が指揮する騒擾評議会と軍によってネーデルラントの征圧を試みただけで、固有の包括的な統治組織を設置したわけではなかった。だが、その結果、ネーデルラントでは独立闘争が始まり、政治的=軍事的秩序の近代化への幕が切って落とされることになったのだ。
オラニエ公ウィレムと独立闘争
1533年、ウィレムは、ハプスブルク家の支配下にあったドイツのニーダーライン地方にナッサウ伯の嫡子として生まれルター派として成長した。11歳のとき、継嗣をもたないシャロン家のルネ(ウィレムの従兄)からネーデルラント各地の広大な所領とともにオラニエ公位を継承した。ただし、相続の条件として、ネーデルラントで多数派のローマカトリックとして教育を受けることを要求された。
神聖ローマ皇帝カール5世は自ら、名門の家臣であるウィレムに期待を寄せ、彼が成人するまでオラニエ公=ナッサウ伯家門の家督を後見する摂政となり、彼に政治・軍事・外交などの英才教育を施したという。ルター派とローマ教会の両方の宗教教育を受けたウィレムは、プロテスタントだが両派の和解を希求する中庸の立場を守ろうとしたという。
やがてウィレムは、ネーデルラントにおける皇帝の顧問団組織、国務評議会のメンバーとなった。成人後、ウィレムは皇帝カールの直属騎士連隊の長となり、1559年に皇帝の命でホラント、ユトレヒト、ゼーラントを統治する州総督(領邦君主) Stadhouder / Statthalter としてネーデルラントに派遣された。総督は大きな権力をもつ官職で、低地地方各地に多くの所領を所有し、さらにフランシュ=コンテ地方をも統治する権限をも付与された。
ネーデルラントでは、エスパーニャ王ハプスブルク家の集権化政策によって騒擾や争乱が続発していた。ハプスブルク家皇帝派の高官ではありながら、ウィレムは、エスパーニャ王の顧問官、枢機卿アントワーヌ・グランヴルが指揮する異端審問評議会の宗教弾圧の苛烈さに嫌悪を示し、彼は対立する宗派との和解を調停するために動いた。だが、宗教紛争と抑圧は増幅していった。
1558年に妻を失ったウィレムは61年にザクセン公家のアンネと再婚し、プロテスタントの有力君侯ザクセン家門の影響を受け、北ドイツのプロテスタント貴族層と親交を深めるようになった。だがアンネは主産後、精神を病んでいき、やがて離婚することになった。
1565年、ウィレムの弟を含む「名望家連盟」はパルマ公マルグレーテにプロテスタントに対する迫害を停止するよう求める要望書を提出し、マルグレーテは要望に沿うことを約束した。だが、おりしもその頃からカルヴァン派や再洗礼派による偶像破壊運動――「聖画破壊の嵐 Beeldenstorm 」と呼ばれる聖堂・修道院への襲撃――が繰り広げられ、ネーデルラントじゅうに騒擾が拡大し、約束は反故にされることになった。
1567年に総監パルマ公の軍事顧問として派遣されたアルバ公フェルナンド・アルバレスはたちまち反乱を鎮圧してしまった。ウィレムとアルバ公とは年来の友情を保つ仲だったという。
ウィレムはネーデルラントでの職務を停止してナッサウ伯領に戻り、反乱派を資金的に援助することにした。アルバ公が組織した騒擾評議会は、ウィレムを反乱関係者として評議会に召喚したが、ウィレムは応じなかった。これによって、ネーデルラントでのウィレムの権限・資産・所領は差し押さえられてしまった。その頃からエスパーニャ王フェリーペの統治政策に反対を表明したことがないのに、独立派の武装抵抗運動の指導者として注目されることになってしまった。
エスパーニャ王権の圧倒的な軍事力の前に反乱派は劣勢に立った。状況を打開するためウィレムは1568年、フランス王国内のユグノー派と同盟を結び、ユグノー教徒の部隊がフランデルン南部ないしエノーから侵攻するのと同時にドイツ傭兵からなる軍隊を自ら指揮してネーデルラントに進撃する作戦を企図した。だが、事前にフランス王軍によってユグノー派が殲滅されてしまい、決行前に作戦は頓挫してしまった。
オラニエ公は1572年にはホラント州評議会から総督に選任され、政治的な便宜上、ホラント州で多数派をなすカルヴァン派に改宗した。
ところが、反乱諸州や有力諸都市は軍事的危機のなかでも各個の独立性や主権を総評議会に移譲しようとすることはなく、オラニエ公の軍事的指揮権をも制限し続けた。ゆえに、彼が運用できる兵員や軍事的資源も限られていた。有力諸都市や州が求めていたのは、ネーデルラントの政治体としての独立ではなく、各個の特権の維持だったのだ。公はしばしば各州や都市代表、総評議会と論争したが、厳しい状況は変わらなかった。
独立闘争の半ば、1584年にウィレムは暗殺され、軍事的=政治的指導者を失ったユトレヒト同盟は解体の危機に直面した。だが、ただちに総評議会は同盟の継続を決議し、その最高執行機関としてウィレムの子息、オラニエ公マウリッツを長官とする国務会議 Raad van State を創設した。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成