第3節 ネーデルラントの商業資本と国家

この節の目次

冒頭(課題の提示)

1 生産諸部門の凝集と生産性

ⅰ 漁業での技術革新

ⅱ 農業の生産性と経営形態

ⅲ 製造業での優位と通商組織

毛織物産業

造船業など

ⅳ 人口構造と産業構造

2 ヨーロッパ海運業・通商での優位

ⅰ バルト海貿易・海運

ⅱ 地中海・イベリア方面との貿易

ⅲ ヨーロッパ内陸交通経路の掌握

3 アジア貿易と連合東インド会社

ⅰ ヘゲモニー企図と東インド会社

ⅱ アジアでの闘争

海洋権力と貿易独占

ⅲ VOCの独占と収奪のシステム

4 アメリカ大陸・大西洋貿易

5 金融での優越―富が流入しやすい環境

6 連邦国家成立の政治的文脈

ⅰ アムステルダムの成長と諸階級

ⅱ 独立闘争の展開

ネーデルラント総評議会と地方総監

オラニエ公ウィレムと独立闘争

ⅲ 反乱諸州と連邦の政治機構

ⅳ 商業寡頭制と「州主権」

ⅴ 各州の状況

7 州総督と軍事力の編成

近代軍事科学の誕生

8 市民革命としての独立闘争

ⅰ 独立闘争と階級関係

ⅱ 近代《国家主権》観念の胎胚

ⅲ ユトレヒト同盟の歴史的構造

9 ヨーロッパ諸国家体系とネーデルラント

ⅰ 連邦国家の強さと弱さ

ⅱ 政治的分裂と対イングランド関係

ⅲ ヘゲモニーの黄昏

ⅱ 独立闘争の展開

  ネーデルラントの反乱にいたる経過はすでに見ておいた。反乱の経過は、アントウェルペンの没落とアムステルダムの隆盛を決定的にした。
  この反乱に対して、1567年、地方総監(副王) Landvogt パルマ公マルガレータの軍事顧問としてアルバ公がネーデルラントに派遣された。着任すると、アルバ公は騒擾評議会を設置して弾圧を強化した。公は、反乱の鎮圧を進め、反乱派貴族とアントウェルペン市長を捕えて処刑した。68年のオラニエ公のネーデルラント侵攻作戦は失敗したが、これが独立闘争の開始となった。69年には戦費調達と主権の誇示のため、アルバ公は十分の一税(商品取引税)と二十分の一税(不動産売買税)を総評議会 Staten-Generaal に提起し、承認を強制した〔cf. 中沢〕

16世紀後半から17世紀前半のネーデルラント

  この強圧的政策に対して、反乱と抵抗は低地地方全域に広がった。抵抗の主力は在地貴族と富裕商人層だった。オラニエ公は、フランスのユグノー派に援助を求め、同時に海乞食 Watergeuzen / Geuzen (カルヴァン派の亡命者の海上武装集団)の私掠船艦隊と連携を深めた。1572年4月、海乞食がデン・ブリルとヘルシンゲンを奪還した。反乱派はスヘルデ河を閉鎖し、ハプスブルク派の拠点アントウェルペンへの航路を阻害した。反乱派は、続いてホラント、ゼーラントの大半を支配下に収め、オラニエ公をホラント州総督 Stadhouder に選任した。同じスタットハウデルという名称だが、以前のようなエスパーニャ王=皇帝が任命する官職ではなく、在地反乱派が選任した君侯位ともいうべきものだった。ホラント州とゼーラント州はハプスブルク王朝の支配から離脱=独立を宣言した〔cf. 川口〕
  だが、アルバ公軍の侵攻の前に反乱派は駆逐されていき、ハールレムは屈服し、包囲のなかで孤立したレイデンは堤防破壊の水没作戦で辛うじてもちこたえた。アントウェルペンはアルバ公の軍事拠点となったが、その兵士の乱暴に苦しむ市民の抵抗と離反は深まっていった。11月、アルバ公が解任され、総監職はマルガレータからドン・ルイス・レケセンスに代わった〔cf. 中沢〕
  反乱派は、73年にスヘルデ河の封鎖を解除する代わりに懲罰的通行税を賦課するようになったので、アントウェルペンへの連絡は大きな制限を受け続けた。74年、給料不払いに憤ったエスパーニャ兵の騒乱に対して市は40万ギルダーを支払うことで、掠奪を食い止めた〔cf. 中沢〕。同年、オラニエ指揮のアントウェルペン奪還作戦はまたもや失敗した。
  1576年3月にレケセンスが急死して指揮系統が乱れ、しかもエスパーニャ王室財政が逼迫してまたもや兵士への給料支払いが途絶えた。エスパーニャ兵による襲撃や略奪、破壊が危惧される状況になった。
  総監レケセンス死後、後任のドン・ファン・デ・アウストゥリアが着任するまで暫定的に国務会議ラート・ファン・スターテ Raad van State の手に暫定的に統治権が委ねられた。1576年9月、ブラバント州評議会は総評議会の召集を発議し、フランデルン、エノーの代議員がブリュッセルに参集、10月には南部諸州も代議員を派遣し、年末から翌年にかけて北部諸州も召集に応じた。総評議会は反乱を起こしたホラント、ゼーラントと講和(ヘント条約/ガン条約)を取り結んだ。両州は代議員を派遣し、総評議会に合流した。独立派諸州の総評議会への結集をつうじて、ハプスブルク王朝への反乱は、ネーデルラント全域に広がった〔cf. 川口〕
  しかしその年の11月、アントウェルペン城砦の攻防戦でエスパーニャ軍が圧勝すると、その直後、エスパーニャ兵が反乱を起こしてアントウェルペン市内になだれ込み掠奪、殺戮、焼き討ちを繰り返した。この「エスパーニャの暴虐」と呼ばれる惨劇で、ネーデルラント全域にエスパーニャ王権への嫌悪と独立の気運が広がった。エスパーニャ王権は軍事的には勝利したものの、政治的には混乱した。統制の取れないエスパーニャ王軍は統治能力を備えていなかった。住民の抵抗のなかで77年、海乞食の艦隊がアントウェルペンに入港し、市政はオラニエ派に握られた。
  1577年、ネーデルラント総評議会は、エスパーニャ軍の撤退と引き換えに新総監ドン・ファン就任を承認した。だが、彼はナミュールを占領して、統治権の奪取をねらった。総評議会はドン・ファンを解任して、オーストリア大公マティアスを総監職として招致し、オラニエ公がその補佐役となった。このレジームも、78年ジャンブルー戦での反乱派の敗北によって解体した。総評議会はブリュッセルからアントウェルペンに移った。その後、アントウェルペン市内ではカルヴァン派勢力が伸張し、カトリック教会での礼拝の差し止め、教会財産の没収、修道院解散を推し進めた。カトリックのマティアスは総監職を辞して帰国した。
  ところで、このとき総評議会は、スペイン王フェリーぺの君主権そのものを否定・拒絶したわけではなかった。というよりも、法理的には総評議会それ自体がフェリーぺの統治を補佐・助言する身分制の諮問機関なのだから、エスパーニャ王の統治権が総評議会の存立根拠になっていたのだ。

  さて1578年、エスパーニャ王フェリーペ2世はパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼを地方総監として派遣した。79年にはネーデルラント諸州の2大勢力への分裂が進み、南部のエノー、アルトワなどワロン諸州がアラス同盟を結成し、北部諸州はホラント、ゼーラント、ユトレヒト、ヘルデルラントを中核としてユトレヒト同盟を結成した。まもなく、アントウェルペンもユトレヒト同盟に加盟した。だが、同市への航行は制約され続け、通商経路は阻害されていたため、ポルトゥガル商人の居留地はケルンに移転してしまった。
  1580年、フリースラント、フローニンゲン、オーフェルエイセルの州総督レネンブルフ伯がエスパーニャ派に寝返ったことで危機的状況に直面した総評議会は、ついにフェリーぺの君主権を事実上否定し、フランス王の弟アンジュー公フランソワを総監職に迎えて対抗しようとした。だが、軍の指揮は混乱し、翌年兵士による掠奪が発生した。アンジュー公は総評議会と対立し、ネーデルラントを去った。混乱のなかで、イングランドの冒険商人組合もアントウェルペンとついに決別して、ゼーラントのミデルブルフに移転した〔cf. 中沢〕
  総評議会は1581年にネーデルラントの君主としてのエスパーニャ王の廃位を宣言した。他方、アラス同盟はエスパーニャと和解し、反乱から離脱した。パルマ公はアラス同盟に支援され、南部を攻略し、1580年にクルトレーとトゥルネーを、82年にアウデナールを、83年にダンケルクとニーウポルトを再征服した。そしてアントウェルペン、イープル、ブリュージュ、ガン、ブリュッセルを包囲し、84年にイープル、ブリュージュ、ガンを陥落させ、85年にはブリュッセルとマリーンに次いでアントウェルペンを降伏させた。これに対して、独立諸州派はスヘルデ河封鎖を強化した〔cf. 中沢〕
  こうして、アントウェルペンは有力な商業都市としての機能を軍事紛争のなかで失い、弾圧や混乱を恐れた住民が流出して人口は半減したという。そのプロテスタント系商人・職人は、資本・技術・取引先との関係を携えて北部諸州やイングランドに逃避した〔cf. 中沢〕。それにしても、皮肉なことにハプスブルク王朝は、アントウェルペンに軍事的打撃を加え、経済的に破壊することによって、アムステルダムを世界経済の頂点に押し上げるための最後の一押しをすることになった。

  ファルネーゼは、戦線を広げて低地地方東部を次々に占領していった。北部諸州だけが反乱を継続した。地理的条件として北部は水路と潟などの障害物が陸地を分断して、エスパーニャの軽騎兵と歩兵団の進撃を妨げた。地形に慣れていた反乱軍はゲリラ戦を仕かけた。だが南部と東部は自然の要害がない平坦な地形だったから、エスパーニャ軍の蹂躙を容易にした。総評議会はイングランド王エリザベスを君主に招請しようとしたが、受諾を得られなかった。その代わり、エスパーニャの勢力拡張を抑えるため、イングランド女王は反乱派に軍事的支援を提供し、85年から軍司令官としてレスター伯を派遣した。だが、伯は下層民カルヴァン派と接近して総評議会と対立し、87年に帰国した。こうして、エスパーニャ以外の君侯に臣従することで地方的独立を得ようとする戦略は頓挫した。
  北部ネーデルラントの統治機構は君主政からの脱却を余儀なくされ、88年以降、ネーデルラントのレジームは統合度の低い連邦共和国――ユトレヒト同盟にもとづく諸州の連合――になった。この局面で、ネーデルラントをめぐる政治的=軍事的状況は制度的に結晶化したと見られる。
  しかし、この闘争は統合された国家をつくろうとする運動ではなかった。むしろ、金のかかるヨーロッパ政策のため、豊かなネーデルラントから経済的剰余を吸い上げるのに都合のよい統治体制を形成しようとするエスパーニャの集権化政策に抵抗して、旧来からの分権的・分散的レジーム(つまり、旧来の特権)を保持しようとする富裕商人層と在地貴族層の抵抗運動だった。外部からの政治的・軍事的介入を排除することができる独特の政治的・法的空間、政治的・法的障壁を形成しようとする諸力の結集過程だったのだ。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第1篇
 ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市

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序章
 世界経済のなかの資本と国家という視点

第1章
 ヨーロッパ世界経済と諸国家体系の出現

補章-1
 ヨーロッパの農村、都市と生態系
 ――中世中期から晩期

補章-2
 ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
 ――中世から近代

第2章
 商業資本=都市の成長と支配秩序

第1節
 地中海貿易圏でのヴェネツィアの興隆

第2節
 地中海世界貿易とイタリア都市国家群

第3節
 西ヨーロッパの都市形成と領主制

第4節
 バルト海貿易とハンザ都市同盟

第5節
 商業経営の洗練と商人の都市支配

第6節
 ドイツの政治的分裂と諸都市

第7節
 世界貿易、世界都市と政治秩序の変動

補章-3
 ヨーロッパの地政学的構造
 ――中世から近代初頭

補章-4
 ヨーロッパ諸国民国家の形成史への視座

第3章
 都市と国家のはざまで
 ――ネーデルラント諸都市と国家形成

第1節
 ブルッヘ(ブリュージュ)の勃興と戦乱

第2節
 アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗

第3節
 ネーデルラントの商業資本と国家
 ――経済的・政治的凝集とヘゲモニー

第4章
 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折

第5章
 イングランド国民国家の形成

第6章
 フランスの王権と国家形成

第7章
 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成

第8章
 中間総括と展望