第5章 イングランド国民国家の形成
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アイアランドへの侵略と王国への統合は、イングランド国民国家の海外膨張の第一歩、植民地形成への最初の動きであった〔cf. Morton〕。それは、域外の住民の生活空間を政治的・軍事的に支配し、土地所有制度や財産制度を強行的に組み換え、自国に従属的な産業構造(分業体系)をつくりだすものだった。
12世紀のアンジュー王権による軍事侵攻の後、行財政制度が築かれることもなかったので、イングランド王権の影響力は失われ、アイアランドはおおむね部族制社会構造が復活していった。そのとき移住した領主貴族たちは、ケルト人部族に取り囲まれながら土着化し、イングランド王権の支配からは独立していた。アイアランド法では土地所有権は部族全体に属しており、その族長たちは、部族の指導者として自由農民を支配していた〔cf. Anderson〕。領主貴族たちは、自らの所領経営をおこなう傍ら、周囲の部族長たちから何がしかの税・賦課金の貢納を受け取るのと引き換えに、部族長たちの権力と部族共同体の秩序を受け入れていた。
15世紀末からほぼ1世紀にわたって、テューダー王権は、名目上だけでしかなかった宗主権を今度は実質的に貫こうと侵攻をくりかえした。1494年から、ヘンリー7世はポイニングズ指揮の軍を派遣してイングランド王権に服属させようとした。しかし、アイアランドの緩やかな政治的なまとまりの中心になっていたキルデア伯フィツジェラルド家をアイアランド総督代理とすることで、イングランド王権の名目上の宗主権を取り繕うしかなかった。軍事的優越を示しても、名目的な臣従の約束を取り付けること以上の関係を政治的に組織化する手立てがなかったのだ。
ヘンリー8世の治世にはトーマス・クロムウェルが、常設の国王役人をアイアランドに派遣して王権への行政的統合をはかって威圧し、挑発に乗って反乱を起こしたキルデア伯家門を1534年に滅ぼした。王権は、土地所有にイングランド法を導入し族長を単独の土地所有者=地主領主として認め、王権への服属と引き換えに保護する政策をとった。1540年には、ヘンリー8世が新たにアイアランドの王位保有を宣言した。とはいえ、それはイングランド王権側から見た秩序観念=法観念にすぎなかった。
しかし実際には、イングランド王権の支配の拡張はわずかしか進まなかった。ほとんどの地方は、ローマ教会を奉ずる族長と土着化した旧イングランド貴族とによって支配されていた。イングランド王権は、信仰の相違を主な理由として土地の直接的・暴力的没収や売り渡しの強制、さらにイングランド人植民地創設に乗り出した。こうしてアイアランド土着の慣習と秩序を破壊する政策は、宗教改革として展開された。ここでも権力闘争は《宗教戦争》の形態を帯びることになった。
16世紀後半、エリザベスの政府がアイアランドへの支配を強めるため、軍を派遣して征服と植民を進め、土地を略奪してプロテスタント入植民のプランテイションを創出しようとしたとき、激烈な反乱が続発した。1595年、ときあたかもイングランドとエスパーニャとの長期にわたる戦争のさなか、蜂起と暴動が全島に飛び火し、アルスターの族長貴族オニールは教皇とエスパーニャに支援を求めた。イングランド王権は大規模な軍隊を送り、アイアランド人のゲリラ闘争には残虐な絶滅戦で対抗した。
戦乱は9年におよんだが、17世紀初頭までに抵抗は粉砕され、アイアランドは領土的にイングランド王国に連結された。略奪された土地は、ロンドンの金融商人や投機家に売り渡され、多くはイングランドの地主制度が移植される土壌となった〔cf. Morton / Anderson〕。残酷なアイアランドの収奪と植民地化は革命共和派政権にも引き継がれ、その構造的な植民地化と周縁化が完成されていくことになった。
やがて「ピュアリタン革命」のさなか1649年、オリヴァー・クロムウェル率いる共和派軍がアイアランドに上陸した。軍事的再征服が進むなかで、アルスター、レンスター、マンスターの3州では土地の大部分がイングランドの地主に渡った。プロテスタント派イングランド人やスコットランド人農民の移住も企画されたが、農園の開拓・営農資金に乏しいこれら移住民の土地は、ほどなくして債務の抵当としてイングランド軍の上級士官や植民活動を担った地主層――軍士官には貴族や地主・商人家系の子弟が多かった――の手に移った。新たな地主階級のほとんどはやがてイングランドに戻って、不在地主となった。
オリヴァー・クロムウェル――有力ジェントリ家系の出身――が率いる共和派軍は、定期的に俸給を支払われる軍だった。とはいえ、当時の身分秩序や資産格差から免れているわけではまったくなかった。部隊の意思決定で「民主制」が採用されてはいたが、軍組織もまた王政と同じ身分秩序に沿って機能していた。鉄騎兵となるには、少なくとも武装や装備を自弁できなけれなばらなかった。兵員への俸給は議会庶民院の統制下で諸都市や富裕商人・地主階級などから徴収された。
当時のヨーロッパの陸軍では、連隊の指揮官 colonel of the regiment は王権などの政府から俸給を支給されたが、自分の連隊の兵員の俸給ならびに装備や食糧をまかなう資金を自ら調達しなければならなかった。そうなると、連隊長などの指揮官・士官として勤務できるのは、中下級貴族・騎士層や富裕な地主・商人家系の出身者だけに限られていた。
政権直属ないし王直属の陸軍であっても、いまだ傭兵制度から常備軍 standing army への長い過渡期の途上にあったのだ。とはいえ、軍のなかで上級士官の地位を得られれば、一定期間の勤務ののち叙爵され貴族となって退役する可能性が大きかった。そこで富裕諸階級は、家系の身分的上昇の道として、戦費を出すという代償を払っても子弟を王軍に仕官させたのだ。上級士官たちは、アイアランドで土地を獲得して身分的上昇の足がかりを獲得した。
一方、アイアランドの農民層は土地保有権や耕作権を奪われ、地代にあえぐ小作人になるか賃金労働者として農村を追い立てられることになった。生存環境の破壊と抑圧によって、アイアランド民族の人口は、1641年からのおよそ10年間で約150万人から約70万人までに激減したという。戦乱と迫害、困窮のなかで死亡した者も多かったが、悲惨さから逃れるために故郷を捨て、アメリカ大陸のプランテイションに舟で運ばれ、「債務奴隷」化した者も多かった〔cf. Morton〕。そういう者たちは、渡航費用を商人に肩代わりしてもらって、費用債務を弁済するまでの期間、アメリカの農園で無給の年季奉公を義務づけられた。
17世紀後半以降、土地所有構造の乱暴な組み替えのあと、アイアランドはイングランドの欲望に全面的に従属した再生産構造が生み出されていった。
つまり安価な食糧と原料の生産地帯となった。はじめは肉牛・乳牛が飼育され、イングランドに輸出されたが、それが供給量を増大させてイングランド産の農産物価格と地代を押し下げる原因とされるや、畜牛・牛肉・乳製品のイングランドへの輸出が禁止された。アイアランドは、低廉な食糧の供給地として地位すらイングランドに奪われてしまった。
やがて酪農が牧羊に置き換えられていくと、今度はイングランド羊毛織布産業の保護のために、原毛をイングランドだけに輸出すること以外のあらゆる羊毛輸出が禁止された。いうまでもなく、毛織物製造業はアイアランドに根づく前に壊滅させられた。わずかにリンネル織業だけが、アルスターに生き残った。アイアランド牧羊業は、需要先がイングランド毛織物業とされたため、景気の波による価格変動に翻弄されることになった。
そしてウォラーステインによれば、17世紀初頭には全島面積の8分の1を占めていた森林は、イングランドの造船や製鉄用燃料、土木用材などに使うために、その世紀のうちに伐採され尽くしたという〔cf. Wallerstein01〕。産業構造だけでなく、自然環境もまた乱暴に組み換えられたのだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成