第5章 イングランド国民国家の形成
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第2章で述べたように、イングランドでの市民革命は、絶対王政が築き上げた国民的枠組みの内部での統治構造の再編成、国民国家の確立をもたらした。基本的に支配階級の交代はなく、支配階級のなかの最有力の分派が交代したのだ。革命が生み出した政府は、絶対王政がつくりだした動きを受け継ぎ、ヨーロッパ諸国家体系のなかでのイングランド国民国家の軍事的・政治的影響力を膨張させ、イングランド商業資本の世界市場での優位を確立していくための政策体系、つまり重商主義 mercantilism を完成させていった。
このような文脈では、絶対王政と革命後の統治レジームならびに国家運営とは、同じ一続きの過程の異なる局面でしかない。ただし、統治レジームの中核を占める階級諸分派の配置と権力構造はそれなりに組み換えられていった。そこで、イングランド市民革命にいたる過程を世界市場およびヨーロッパ諸国家体系という文脈のなかに位置づけて描き出してみよう。
16世紀後半以降、イングランド王国の国家構造の展開において、エスパーニャ王国との対抗関係は大きな意味をもっていた。イングランドは、一方では大西洋貿易網およびエスパーニャ領アメリカを蚕食して世界貿易および海洋勢力圏を拡張すること、また他方ではヨーロッパ諸国家体系での諸王権の既存の力関係の平衡状態
balance of power を保つことによって、イングランド商業資本(その支配下の製造業)の政治的・経済的優位をつくりだそうとしていた。この文脈において、エスパーニャとの対抗は最も重要な意味をもっていた。
また、教会組織を国家装置に組み込み、独特のプロテスタンティズムを国民的統合のイデオロギーとしたイングランド王権が、ローマカトリックを奉ずるアイアランドを政治的・軍事的に統合していくうえでも、カトリック教義でイデオロギー的に武装して教皇庁と同盟するエスパーニャ王権との衝突は避けられなかった。
さて、教義や教会組織の活動・運営スタイルに対していたるところで異議申し立てを浴びたローマ教会は、16世紀半ばにトゥリエント会議をつうじて戦略と組織運営を立て直し、イエズス会士のなかから高度に訓練された規律ある攻撃的団体を組織した。彼らはヨーロッパのいたるところで、異端審問制度を威圧と抑圧の手段として、民衆の行動様式と意識をローマ教会に再統合する活動をおこなった。とりわけエスパーニャ王権ハプスブルク家の支配圏域では、異端審問会議は最も主要な統治装置の一環をなしていた。
教皇庁から見れば、諸地域の信徒と教会組織との結びつきや教会・修道院所領で農村や都市への支配を維持することは、寄進や税・貢納という形態で莫大な財貨を「わがもの」とし続けるために不可欠だった。
プロテスタントと異端者の異議申し立ては、こうした支配構造、権力関係に対する反乱・革命を意味した。だから、君侯たちや有力貴族層、諸団体のなかでは、信仰や教義の内容は後回しにして、こうした旧来的な権力構造やイデオロギー装置が自らの権威や支配に有益と判断した者がカトリック派を標榜し、それを攻撃することが自らの利益にかなうと判断した者はプロテスタント派に与することになった。
エスパーニャ王権は、ネーデルラントやブルゴーニュ、イタリアなど各地に支配地を保有していたから、ローマ教会・教皇庁と同盟してヨーロッパの多くの地域と政治体に介入し、自らの優位の確保と影響力の浸透をもくろんでいた。それに敵対する勢力は、反カトリックを旗印にすることになった。ゆえに、ヨーロッパ各地での政治的・経済的利害の衝突と権力闘争は、《ローマ教会対プロテスタント》という宗教的敵対の形態を帯びることになった。
フランスでは、ハプスブルク家との戦争で財政的に破綻したヴァロワ王権の没落とともに諸侯、諸地方は分裂・対立したが、この混乱も《ユグノー対カトリック》という宗教戦争の形態をまとった。フランス王位を獲得したブルボン家は、その混乱紛糾のなかで諸侯を抑えて、もう一度諸地方を王の権威のもとに統合し直さなければならなかった。そこで、王権と地方との対抗関係もまた宗教的敵対の形態をまとうことになった。フランス王権は、ヨーロッパ規模での権力闘争から一歩後退し、エスパーニャ王権への対抗力を大きく損ねてしまったかに見えた。
というしだいで16世紀半ば過ぎ、エスパーニャの優越が現出した。エスパーニャがアメリカ大陸と大西洋貿易から獲得した貴金属は国内に蓄積されず、最終的にネーデルラントや北イタリアの商人に吸収されてしまったとはいえ、彼らに支払った貴金属と引き換えに手に入れた物資や兵器、傭兵、運輸サービスによって、少なくとも短期的には、エスパーニャは政治的権力と軍事力を補強することができたのである。しかも、エスパーニャ王権はポルトガル王位をも獲得し、そのガレオン船艦隊を手に入れていた。
イングランド王権としては、エスパーニャがことにネーデルラントへの支配を強化し、それをつうじて北海・バルト海方面に影響力を強めることを阻止しなければならなかった。それゆえ、女王エリザベスはネーデルラントの諸都市住民と農民の反乱とエスパーニャからの独立闘争を支援することになった。とはいえ、王室財政は逼迫していて、陸軍の遅れた組織と貧弱な装備の手当てもできずにいたため、最新鋭のエスパーニャ軍に対抗する力はなく、本格的な艦隊の派遣もできなかった。
そこで、私掠船 privateer による効果的な側面攻撃を仕かけた。イングランド王室は、私掠船(海賊船)の船長たちに私掠財貨の一定割合を王室に税として納めることを条件として私掠特許状を与えて、正規の海軍艦船と同じ扱いを認めた。私掠船団は王国海軍の艦船に混じって、海戦に参加した。
イングランド王国海軍艦隊からその補完戦力として支援を受けた私掠船団が、北海からドーヴァー海峡、ビスケイ湾、アイアランド沖におよぶ海域でエスパーニャ艦船と港湾への攻撃を仕かけた。これによって、エスパーニャ北部からネーデルラントにいたる補給航路を麻痺させることができた。この艦隊には、ネーデルラント人やユグノーも混じっていた。私掠船の活動は、まもなく大西洋からアメリカ大陸までの海路全域に展開することになった。その海賊行為で掠奪した財宝の分配にはイングランド王権も参加していた。私掠船の海賊行為は、王権や商業資本からの支援を受けた経済活動だったのだ――世界市場に流通する富を国内に移転・蓄積し、王室財政を補填する手段として。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成