第5章 イングランド国民国家の形成
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1660年代の護国卿レジームでは、政府のあらゆる収入が分散的で秘密の多い王室財政から「単一の国庫 a state household / state-treasury 」に集中されたので、大蔵省 Treasury ――庶民院によって統制された財政担当の顧問会議部局――が収支を把握・統制し、予算を計画化して、公債を計画的に発行し償還する条件が整い始めた。だが王政回復後、チャールズ2世とジェイムズ2世の政権による放漫な王財政運営によって1672年には支払停止(財政破綻)が生じて、政府財政への信用は大きく失墜したため、東インド会社が金融市場で4~5%で借り入れることができたのに、政府の借入れ金利は12~20%にもなった〔cf. Hill〕。
1688年の革命で王権と中央政府が全面的に庶民院の統制を受けるようになった――政府財政が商業会計の手法によって統制され、その資産状態が正確に把握・記録されるようになった――ことで、政府と庶民院とのあいだに財政運営についての信頼関係が形成され、償還期限が長期の公債が募集できるようになった。それでも、名誉革命後も政府の信用は私企業に比べてかなり低く、国家財政は逼迫し続けていた。財政リスクに比例して、政府への貸付け利率は高かった。政府は信用度の不足を高い利子を払うことで補って資金調達していた。対岸のアムステルダムの財政金融事情とは大きな較差があった。
とはいえ、名誉革命レジームは、国民的規模で結集したイングランド商業資本のヘゲモニーによって支えられていた。だから、商業資本グループの資金循環と政府財政とを制度的に連結する必要があった。こうして、商業資本家の特殊な団体でありながら庶民院の統制を受けて政府財政を運用管理するための組織として、イングランド銀行 Bank of England / Governor and Company of the Bank of England が創設されることになった。ただし、この銀行の設立を、管理通貨制度と中央銀行制度が所与となっている現代の共同主観から離れて考えよう。
世界市場でのイングランド商業資本の優位をつくりだす政策は、期待される見返りも大きかったが、すこぶる金のかかる事業だった。そのためには、政府の財政資金調達を管理する《商業資本の金融センター》を組織しなければならなかった。それはまた、国家によって与えられた独占的特権にもとづいて発券業務を担う特殊な銀行をつくりだすことで、ロンドン商業資本のイングランド金融市場における支配権を政治的に保証し制度化するということを意味した。
このような文脈において、貨幣資本の循環メカニズムに中央政府を引き込んで連結し、その権力を背景として、アムステルダムほどではないにしろ、ロンドンを軸心として回り始めた世界貿易に見合った通貨循環のコントロールセンターをつくりだすという戦略が、有力な貿易・金融商人グループのあいだでしだいに形づくられていくことになった。こうして、政府に120万ポンドを貸し付けることの見返りに、兌換銀行券
convertible notes の発行権の独占を認められた金融商人グループがイングランド銀行として法人化されることになった。イングランド銀行は政府に通常8%の利率で――政府公債の買取りという形態で――融資し、政府の財政収入を管理するとともに、国民的通貨として流通する銀行券を印刷する権限を与えられた。
通貨と言えば紙幣が当たり前の現代社会と違って、この当時の紙幣すなわち兌換銀行券の発行の意味は貨幣資本の取引き・循環にとって決定的な意味を持っていた。当時、紙幣は「現金」ではなかった。まず兌換とは、銀行券を貴金属通貨(金貨や銀貨、ないし地金)と交換できる能力を認められた状態を意味する。いわば、巨額の預金証書や信用状として通用する有価証券の1つとなったのだ。つまり、銀行券の行使は「兌換性」を土台とする信用取引きだった。
してみれば、信用取引きの決済を「信用度がきわめて高い有価証券」の取引きで済ませられるようになったわけだ。
となると、銀行が振り出した銀行券=紙幣を行使できるのは、銀行に多額の金貨・銀貨ないし地金を預託して口座を開設できる大富豪だけだった。そして、紙幣券面額は当時の価値できわめて巨額の価値を表すもので、特権的富裕者・企業どうしの大口取引の決済手段として用いられた。それまでは、貴金属貨幣によっておこなわれた決済取引きを代行できるようになった。
こうして、それは貨幣取引きをより安全かつ円滑にし、資本循環の効率化と加速化をもたらしたのだ。それゆえまた、貨幣資本の集積と集中を促進する仕組みともなった。
兌換紙幣の発行とは、貴金属貨幣と銀行券(証券紙片)との置き換えだから、その発行権の独占とは、社会的剰余価値としての貨幣資本をイングランド銀行という最有力の商業資本団体に集積することを意味した。
イングランド銀行は、銀行券の発行という形態で資本を国家に貸し付け、政府に代わって公債の利子を支払うことになった。公債の主な買主は、有力な貿易商人や金融商人だった。だから、彼ら(商業資本)は、イングランド全体から政府財政に集中された剰余価値をめぐって、公債利子という形態での再分配を最も多く得た階級だったということになる。
このような仕組みをつうじて国家財政に流れ込んだ資金によって、植民地の再分割や通商政策、ヨーロッパの力関係をめぐる戦争の費用がまかなわれたのだ。つまり、政府財政の使い道としても、最大の利益を受けたのも、世界貿易・金融を営む商業資本だったということだ。
戦費は政府歳入の何倍にも達したが、とにかく指導的な商業資本グループの力で資金を集め、国家に貸し付けた。商業資本は、彼らの代表が多数の議席を占める庶民院による統制をつうじて、課税基盤の拡大――消費税の対象品目の増加や土地課税など――と政府の返済計画を誘導した。イングランド銀行と結びついた政府財政は、こうして巨大な再分配機構になっていった。
イングランド銀行は、シティ・オヴ・ロンドンの有力な貿易商人・金融商人の周囲に全国の富裕階級を凝集させる機能も果たしていた。それは政府機関ではないが、最も枢要な国家装置=支配装置だった。そして、政府の借入れと支出そして返済についての管理を、議会庶民院だけでなく、直接にこの権力ブロックの中核をなす《商人グループとしての銀行》とシティ・オヴ・ロンドンの商人団体の統制下に置くことになった。
国家とは、公式の政府機関だけからなるわけではない。支配階級はもとよりさまざまな階級の国民的規模での政治的凝集を組織化するための機能を直接果たす装置は、国家装置となる。たとえば、政府の多くの諮問機関に代表を派遣する経営者団体や労働組合団体、許認可権・資格認定権を持つ業界団体などもこれに含まれる。コーポラティズム理論は、このような団体が国民国家の支配=統合装置として機能することを指摘している。
庶民院が保証した国債の利払いのために税収の増大が必要になった。ゆえに、消費税の課税対象の拡大は、急速に膨張している大衆消費財の生産・流通・消費量からしても、また税負担の重みをジェントルマン層から軽減して一般民衆の肩に担がせようという意味でも、この財政・金融改革の必然的帰結であった。政府の借金を返済するために、議会は戦時課税という名目で民衆から富を取り上げ、最有力な商業資本(金融グループ)の懐に移す政策を策定していった。
これと地租の改正を考え合わせると、政府財政をつうじて、貨幣資本を所有し管理する階級へと一般民衆と地主階級から剰余価値を移転するメカニズムが形成されたということだ。
これは「政府財政の上からの社会化」――税負担の社会的拡散――ともいえる。このような言い方をするのは、富裕商人階級が支配する庶民院が立案する課税政策が自分たちの懐の痛みをできるだけ小さくし、消費税などの形で一般民衆の負担を重くしたからだ。消費財への定率課税では、所得に占める納税額の比率が収入の少ない階級ほど大きくなることは、言うまでもない。
イングランドが世界経済でのヘゲモニーに挑戦するための重商主義的政策を支えた財政メカニズムは、あらましこのような構造だった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成