第5章 イングランド国民国家の形成
この章の目次
アンジュー家のアンリは、ノルマンディ公アンリ1世の公女マティルダとアンジュ―伯ジョフルワとの政略結婚で生まれた嫡子だった。ジョフルワはマティルダと結婚したことから、やがてノルマンディ公家の正統嫡子が絶えると公位と領地を継承した。
アンリは1152年に西フランスのアキテーヌ公女エレオノーラと結婚したことから、アキテーヌ公位と領地を受け継ぐことになった。ジョフルワ亡きのち、アンリはアンジュ―伯位、ノルマンディ公位をともに相続した。
こうしてアンリは、フランス北部から西部におよぶ広大な領地を支配することになり、フランスで最大の領主貴族となった。そして、この地位と権力を背景にしながら、イングランド王を兼ねていたノルマンディ公家系の継承者として、イングランド王位を要求し、獲得した。フランス王国の辺境属領にすぎないイングランドの領主たちは、その圧倒的な権威に服するしかなかっただろう。
というしだいで、フランスで最有力の君侯がイングランド王位を保有するという事態が継続することになった。そこで、1154年からバラ戦争までの時期のイングランド王室を、ノルマンディ=アンジュー=プランタジュネ王朝と呼ぶことにする。
イングランド内部のレジームを見てみよう。
領域国家への動きを明白に表すのは、「王の平和」という観念である。この観念は、ヨーロッパ大陸(ドイツ、フランス)での王権思想を受け継ぎながら、イングランドではアングロサクスン時代の晩期に出現したものだ。これが、ノルマンディ=アンジュー=プランタジュネ王朝のもとでは、訴訟事件をめぐる裁判権や軍事的および刑事的司法権を中央権力が吸収・独占していくための思想として利用された。
ノルマン征服王朝の諸王は紛争を裁く法廷を開くため、ウェストミンスターに中央裁判所を設け、地方には巡回裁判官を派遣した。巡回裁判の手続きとして陪審が設けられたが、陪審裁判の開催は王の特権として位置づけられ、王権の権威を地方に伝達し司法権を王権に取り込むための制度となった。王権による司法権の独占への動きは、実際にはもっぱら、訴訟費用の徴収や罰金や財産没収という形で財貨を王室にかき集めるために、つまり財政的理由から進められていった。
ノルマン王朝でも11世紀末葉から12世紀にかけて、アンリ(ヘンリー1世)――アンジュ―伯アンリの義父――によってイングランドにおける中央政府装置がつくりだされていった。この過程は、ノルマン征服王朝に固有の事情に影響されていた。というのは、王の大陸ノルマンディ公領への滞在が長期化しても、つまり王が長期間不在でも、イングランドでの王権の統治が機能するような制度的組織をつくらなければならなかったから、通常は王の巡行に随行する人員(家臣団)から構成される家政装置(宮廷)とは別個に機能する統治装置を組織したのだ。
その核心にあるのが、総督 Chief Justicier のもとで王室財政への歳入を管理する財務法院 Exchequer
の創設だった。王室の財政収入の主要な部分は直轄領(王領地)からのもので、残りは都市や団体からの上納金や領主貴族からの通常税や臨時税によるものだった。これらは各州の長官によって集められ、財務法院に納入された。
とはいえ、輸送手段と貨幣経済が未発達な段階にあっては、直轄領からの王室の収入のほとんどは現物形態をとっていたので、長距離の輸送や長期の保存ができなかったから、はじめのうちは王とその随行家臣団または巡回使節が領地から領地に回って歩いて消費するしかなかった。王たちは権威を誇示するために巡行先で盛大な住民集会を催して、住民に飲食を振る舞った。
剰余生産物が貴金属形態で王室財政に集積されるようになるのは、13~14世紀に、生産物がある程度の広がりをもって貴金属=貨幣と交換されるようになってから――商品・貨幣経済が成長し遠隔地交易が浸透して以降――のことである。
統治組織の2つ目の核心は裁判組織だった。当時の裁判装置は、司法組織でもあるだけでなく行財政組織、軍事組織でもあった。王に対して訴願された案件は、それまで王の親臨で開催される王会 Curia Regis で審理されていたが、王の不在中は総督を補佐する常任の裁判官団が審査するようになった。彼らは財務法院の活動も監督した。この一群の裁判官たちは、法知識をもつ聖職者や財務法院の役人が兼務していたようだ。
彼らは、王領地を中心に地方に派遣され巡回裁判をおこなった。巡回裁判官は、王領地の経営状況を視察監督するとともに、州・ハンドレッド単位の陪審制の裁判集会をおこなわせた。そこには州長官、貴族、ハンドレッド・都市・村落の代表が参集し、自由農民も含めた全自由人が陪審員または訴訟当事者として関与していた。いわば王権と地方共同体との意思交換(威圧・対話・妥協)の場となった。巡回裁判官たちは、地方での王の権益を保全し、裁判をつうじて罰金や財産没収、示談金などによる王室財政への収入を得た。
12世紀になると、有力な地方貴族である州長官の権力を削ぎとるために、州長官の権限から裁判権を分離して、王権の統制をおよぼしやすい中下級貴族を地方裁判官に任命した。
だが、王国とはいっても、その統治装置は宮廷と直轄の王領地に張り巡らされた王室の家産的支配の体系にすぎなかった。宮廷はというと、特定の場所に固定されることはなく、王とともに各地を巡行する随行家臣の集団が宮廷=中央統治装置の核をなしていたにすぎない。この随行員のなかには、王直族の廷臣のほかに高位聖職者や大貴族、その側近の役人・従士たちがいた。つまり、特定の場所に固定した中央政府(宮廷組織)とか持続的な安定した統治秩序が形成されていたわけではなかった。
さて、征服王権によって、各地の領主貴族の入れ替えがおこなわれたのち、彼らが地方に在地権力の基盤を固めるまでは、王権は優位に立ち、諸侯や地方領主層に強い影響力をおよぼし、彼らの権力を制限することができた。しかし、領主貴族たちが――地位と所領を世襲相続しながら――地方統治や所領経営のための組織をつくりあげるにしたがって、王権の統制は後退せざるをえなかった。そうなると巡回裁判は消滅し、財務法院は機停止状態に陥って王領地や王室の財政権益の相当部分が地方の有力貴族の手にわたり、地方裁判官職も地方の有力貴族の統制下に置かれるようになっていった。そのため、12世紀前半には王の権威が弱体化し、王位継承をめぐって有力諸侯の紛争が生じた。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成