第5章 イングランド国民国家の形成
この章の目次
13世紀前葉に、王と領主貴族との政治的妥協が大憲章 Magna Charta という形態で決着を見た頃から、王権をめぐる階級関係とその制度的形態は変化していく。問題の中核には王室の財政政策があった。
王権による国家装置――王国統治に関与する統治機構――の運営に必要な財源は、王領地からの収入からまかなうというのがこれまでの慣習であった。軍務の免除と引き換えに領主貴族から受け取る税や都市商人団体への賦課金は、特別税であり、戦役などの例外的な状況でだけ認められていたものだった。ところが、王権が地方領主層の権力を吸収し、イングランドの統治全体に広く深くコミットしていくにつれて、行政装置は拡大し必要な財政規模も膨らんでいった。土地への課税や都市・商人団体への課税が常態化していった。
土地への課税の恒常化は土地所有階級(領主貴族・有力地主農民)の王権運営への関心を高めた。そして、商品流通の拡大と都市の成長にともなって、土地よりも他の形態の財産への課税の方に重点が置かれるようになってきた。それは当然、都市代表や上級商人層の王権運営への関心と関与を呼び起こすことになった。財産税は、当初の粗雑な査定によるものから固定した額になり、「十分の一税」や「十五分の一税」という通常の形態で4万ポンドの歳入を生み出すようになった。
こうして、王権の運営をめぐって――それは経済的剰余の分配をめぐる問題なのだが――王、領主貴族、富裕商人・都市団体のあいだの利害の衝突と妥協をめぐる枠組みの新たな制度的形態が求められることになった。
大憲章の確約ののち、アンリ3世が成人するまでのあいだ、直属授封貴族と上級聖職者からなる大評議会 Parliament が王権の運営(イングランド王国の統治)をめぐる意思決定と行政的指揮をおこなっていた。こうして、王権の運営への関心を強めた領主貴族階級は、大評議会ないし宮廷装置の周囲への結集をつうじて、それぞれの所領や地方支配圏域を超えるイングランド規模での統治に集団的に取り組むようになっていった。
だが、当時の王とその取り巻きたちは、直轄領を越えてイングランド全体にまで拡大した統治システムに適合した思想や行動規範をもち合わせていなかった。1257年、すでにフランスでの支配地を失い面目を失っていたアンリ3世は――それでも懲りず、フランス王カペー家のとの勢力争いのために――、シチリア王国を買い取るための資金調達を大評議会に求めた。オクスフォードでの大評議会は王の要請を拒否し、王権を王の恣意から独立して運営するために、大評議会の運営を担う委員会の設置や大法官などの枢要な官職の任命権を要求した。
王と大評議会との対立は、領主貴族層内部の分裂をはらみながら、争乱を引き起こした。領主階級からの脱落者が続出する一方で、反対派の軍隊にはロンドンをはじめとする諸都市の商人、小地主、下級聖職者(遊学修道僧=学生も含む)が加わっていった。大評議会の構成も変化していった。
フランス王カペー家のルイ9世は、弟のシャルルをアンジュー伯に叙爵して、イングランド王家から没収したアンジュ―伯領を授封した。1266年、そのシャルルがナ―ポリ=シチリア王位を獲得することになった。イングランド王アンリは、ナ―ポリ=シチリア王位の獲得に失敗したということだ。
だが、新たなアンジュー家門とフランス王室は、そののち南イタリアとシチリアをめぐる消耗の多い勢力争いに巻き込まれ続けることになった。それが、カペー王朝没落の原因のうちの1つをもたらすことになった。その意味では、イングランド王権としては、見返りのない負担を負わなく済んだわけだ。
1265年、反対派のレスター伯シモン・ドゥ・モンフォールは、各州から4人の騎士(土地を所有する名望家)代表、特許状都市から2人の市民(都市と郡部)代表の派遣を要請して大評議会を召集した〔cf. Morton〕。州代表の騎士は、中規模以下の地主領主層の利害と結びついていて、企業経営や商品経済に対する立場では都市代表と親近性をもっていた。
結局、反対派は戦闘に破れたが、アンリ3世(ヘンリー)を継いだエドゥアール2世(エドワード)は、打ち続く戦役の費用を調達するため、大評議会――このときから組織の性格が転換するので、以下パーラメントを「議会」と呼ぶ――を幾度も召集することになった。この議会は、王が要求した税を承認し課税の基礎になる査定簿の作成を管理するという、いわば租税徴収を正当化する装置になった。
だが、1297年に王が財産税の強化、羊毛輸出税、教会財産の没収を求めると、議会は強く抵抗し、王に大憲章の確認を迫り、譲歩を勝ち取った。エドゥアールは、議会の承認なしに新たな課税をおこなわないと約束した。議会は、王権の運営と課税への発言権を強め、ついに1327年、戦役の決着のつけ方を糾問して、エドゥアールを王位から引きずりおろした。こうして、王権の運営をめぐる王・領主・都市団体または富裕商人の利害衝突と調整は議会をつうじておこなわれることになった。諸身分、諸階層は議会での衝突・調整・妥協をつうじて、イングランド規模での政治的関係や行財政運営を意識し始め、統治機構を形成し始めるようになった。
議会での諸身分・諸階級の力関係はそのつど変化した。それは議会の制度的構成に結晶していく。大領主貴族(大地主)たちは独自の集会をもつようになり、州代表騎士はしだいに市民代表と合同の集会をおこなうようになった。やがて、聖職者は議会から離れて聖職者会議
Convocation を組織した。こうして、将来の貴族院 the House of Lords と庶民院 the House of Commons
への分化が方向づけられた。
そこには、大領主貴族と経済的に親近性を強めつつある下級領主・騎士・富裕地主農民層との階級的・身分的分化が反映していた。
大所領では――貸し地経営も広がり始めたが――家政収益のうえではいまだ賦役労働による直営圃場経営が支配的で、大領主たちは旧来の生活慣習を固持しているのに対し、中小の地主領主たちは賃労働を使って羊毛生産=牧羊業を営み、貿易の発展に期待していた。地主と貿易商人との利害の一致が、庶民院での州代表騎士と市民代表との同盟を基礎づけていた。このような階級関係を基礎として、しばしば庶民院が貴族院とは別個の独立した国家装置――統治階級内の1セクション――として行動する政治的行動パターンができあがっていった〔cf. Morton〕。
だが、請願に同意を与える権限も、王権の高官の弾劾裁判権も貴族院だけが握っていた。しかも、統治にかかわる問題を議会に諮問するかどうかを決めるのは、王と王評議会だった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成