第5章 イングランド国民国家の形成
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一般に革命では、その革命が生み出した諸制度から最大の利益を引き出し、新たなレジームで支配的になる階級・階層と、実際の革命闘争で最も活動的・攻撃的な役割を担う階級・階層とは別である。そして、革命の過程は、運動の形態や担い手の変遷に応じて、いくつかの局面に分けて分析されることになる。
最も手ごわい敵対勢力を撃退し古い諸制度を破壊する局面では、革命勢力のうち最も先進的な部分が最も大きな役割を演じることになるか、あるいは先進的勢力が一般民衆を扇動して運動の支持基盤を獲得しようとする(急進的局面)。したがって、変革運動の理念やスローガンは急進的・民衆的色彩を帯びることになる。その後、めまぐるしい力関係の変化のなかで、暫定的な諸制度がいくつも試行錯誤的につくりだされる。
しかし、力関係のめまぐるしい変動と一連の試行錯誤ののちに力関係の枠組みが決定し、新たに持続的な諸制度を構築する局面になると、革命勢力のなかで諸分派の分裂と闘争が展開され、結局のところ、保守派・穏健派が指導権を握るようになる(保守的局面)〔cf. Rude〕。
そうなるのは、次のような因果関係・力関係の変動の文脈がはたらくからだ。
保守派・穏健派はすでに経済的再生産のなかでは優位を獲得しており、さまざまな党派のなかで最有力の財政的能力を保持していて、その権益を維持するために資金的能力や政治的影響力を惜しみなく持続的に行使する。そして、これらの階級・階層こそが、革命が創出または再編した諸制度から最大の利益を引き出すのである。多くの場合、急進派はさらに小さな分派に分裂しながら自滅していくか、あるいは保守派・穏健派が樹立するレジームによって押しつぶされる。
ピュアリタン革命も大局的に、そのような経過をたどることになった。
チャールズの降伏で対決に決着がついたと見た長老派(庶民院多数派)は、王ならびに王党派と妥協するため、兵士への未払いの俸給を残したまま新型軍を解散させ、別の軍隊を編成しようとした。この策謀を察知した急進派=水平派は協議会をつうじて兵士を指揮し、軍をロンドンに進駐させて庶民院に圧力をかけようとした。水平派は独立派の軍幹部――フェアファックスやクロムウェル――とも対立していた。議会派内部の分裂・対立は先鋭化した。
この分裂に乗じて王党派が各地で蜂起し、チャールズの要求に応じてスコットランド軍が侵入してきた。独立派は水平派と一時的に妥協して、王党派を鎮圧し、スコットランド軍を打ち破った。凱旋した新型軍は、王党派と妥協的な長老派議員たちを議会から追放(投獄も含む)した。独立派だけとなった議会(残余メンバーからなる議会 Rump Parliemant )は49年、高等法院 High Court を設置してチャールズを断罪し、処刑した。チャールズは独立派の妥協的な要求すら拒否し、スコットランド軍を操るなどして復権の策謀をめぐらしていたため、国家への反逆罪、殺戮陰謀罪に問われたのだ。続いて独立派の議会は、一方では王政と貴族院を廃止し、他方では水平派を抑圧して、共和政を宣言した。
新型軍指導部のなかでもフェアファックスは立憲王政派で、王の裁判に反対であったため、司令官職を辞してオリヴァー・クロムウェルに軍の指揮を委ねた。クロムウェル自身も穏健派だったが、議会派との妥協を拒否して策謀を繰り返すチャールズを排するために、王の断罪に踏み切ったようだ。
それは、新型軍の内部で士官層と水兵派との分裂と対立が目立ってきたことから、軍の統一性を維持して、王党派を封じ込めるために選択した判断だったらしい。
新型軍全体としても、議会長老派が王党派との同盟を画策し、軍を解体しようとしていることに危機感を抱き、ロンドン民衆の支持を得ようとしたことから、王の所業・陰謀を暴き、宣伝した。こうしてロンドン市民たちの多くも、チャールズの専横や悪辣さを知るところとなり、王の処刑という極端な判決を受け入れた。
ところでこのとき早くもすでに、過酷な身分制秩序をともなって展開する、商業資本が支配する資本主義的経営様式に対する下層民衆の反発や憤懣が――軍の水兵派の煽動に触発された形で――表明されたことは、注目すべきだろう。
1653年には、クロムウェルが残余議会を強制的に解散し、さらにこれに代わる指名議会をも解散して、統治章典 Instrument
of Government にもとづいて護国卿 Lord Protector of the Commonwealth of England,
Scotland and Ireland に就任した。統治章典は護国卿、国務会議、議会のあいだの相互抑制と均衡のうえに国家統治を行なうことを想定していた。だが、54年に召集された新議会の多数派を構成したのは穏健派ジェントリで、護国卿の権限を制限しようとした。
1655年、王党派の反乱ならびに議会保守派と王党派との同盟を抑止するために、クロムウェルは全土を11の軍管区に分けて統治する軍政官制度を敷いた。地方行政では、都市部で旧来の名望家から選任された治安判事に軍政官が干渉したため、ジェントリの利害を中央国家装置に伝達する仕組みは麻痺した。とはいえ、クロムウェル自身が富裕なジェントリであったから、地主階級の利害に反する政策が打ち出されることはなかった。
革命闘争は、土地という経済的資源の大規模な再分配の過程でもあった。
1640年代から始まった議会派による王党派からの土地の没収・競売や差押さえ示談賠償制度によって、多くの土地がロンドンの富裕商人や新興ジェントリの手に移った。こうして、旧王権を支えていた王党派ブロックの経済的基盤は破壊された。
ところが、共和政とクロムウェル独裁は、旧弊な国家構造を破壊したが、安定した国家構造の創出にはいたらなかった。ゆえに、1659年のオリヴァー・クロムウェルの死後、残余議会は復活し、ただちに共和政の廃止と王政の復活に向かう力関係の転換が現れた。
1660年の王政復古(チャールズ2世)にともない、共和政時代に没収された王領地と教会領地は返還されたが、王領地内の土地所有者は王室への旧来の賦課金支払いを免除された。そして、王党派への土地の返還は有償であったうえに、なおかつ重い課税のせいであまり進まなかった。
アングリカン教会は復活し、その教義と規律の受容が行政装置への就任の条件となったため、ピュアリタンは教会および国家装置から排除されていった。急進派の裏打ちとなっていたクロムウェルの指揮下にあった軍隊は解散され、数個の親衛隊だけが王権の周囲に残された。
その後、中央政府諸装置は何度も組み換えられ、17世紀末までは国家構造と統治システムをめぐる対立と試行錯誤が続けられた。
一方、国家装置のなかでもすでに早くから王権の統制から離脱した海軍は、持続的にシティやそのほかの有力諸都市に支持され、庶民院の支援を受けて財政的な手当てを受けていた。艦隊の規模は、1649年の39隻から51年には80隻に倍増し、兵士の給与や待遇は改善され、造船廠や寄航基地、兵站・補給体制が整備された〔cf. Kennedy〕。この傾向はオリヴァー・クロムウェルの死後、そして彼の地位を継承した子息リチャード・クロムウェルの失脚後も一貫して続き、1689年にはイングランド艦隊の規模は100隻を超えた。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成