第5章 イングランド国民国家の形成

この章の目次

1 ノルマン征服王朝の統治体制

ⅰ ノルマンディ公の征服王権の形成

ⅱ ブリテンの地政学的環境

ⅲ フランス君侯の属領としてのイングランド

2 王権国家装置の形成と集権化

ⅰ 王権の統治機構の創出

ⅱ 王権統治機構の再編

◆ドゥームズデイブック

ⅲ 教会組織および貴族との葛藤

◆バロンの反乱とマグナカルタ

3 王権と交易関係の浸透

ⅰ イングランドと北西ヨーロッパ貿易圏

ⅱ 貨幣経済の浸透と所領、王室財政

ⅲ 王室財政と大評議会

4 ブリテンの都市=商業資本と王権

5 王国の地理的拡大

6 百年戦争とバラ戦争

ⅰ ヨーロッパ貿易と百年戦争

ⅱ 都市と農村の構造的変動

ⅲ バラ戦争と王権の再編

7 ヨーロッパ分業体系とイングランド

ⅰ 王権をめぐる域外商人と域内商人

ⅱ 域内商人の力量の増大

ⅲ 産業成長と商業資本の権力

ⅳ 王権、貴族と商人の同盟

8 テューダー王朝と重商主義

ⅰ 統治機構の再構築

ⅱ 王室財政の逼迫と重商主義

ⅲ 宗教改革と絶対王政

ⅳ スコットランドの宗教改革

9 諸国家体系とイングランドの海外膨張

ⅰ 諸王権の対抗と宗教戦争

ⅱ イングランド海洋権力の拡張

ⅲ アイアランドへの侵略と統合

ⅳ 特許会社と世界市場への進出

10 市民革命と国家機構の再編

ⅰ 庶民院と王権との闘争

ⅱ 敵対の構図

ⅲ 内戦の帰趨

ⅳ 新たなレジームをめぐって

ⅴ 議会政派の形成と名誉革命

11 世界経済における国民国家と商業資本

ⅰ 世界経済での優位をめざして

ⅱ 財政改革と金融市場

イングランド銀行の設立

イングランド銀行と金融市場

ⅲ 金融市場の成長と階級構造

  ドゥームズデイブック

  征服後1086年までに、ノルマン征服王はイングランドとウェイルズ(カンブリア)の土地と住民にかんする調査をおこなって記録した。それを編纂した文書がドームズデイブック(ドゥームズデイブック) Domesday Book / Doomesday Book だ。
  この文書は、ノーフォークとサフォーク、エセックスとウェイルズをカヴァーする小ドームズデイ Little Domesday とそのほかのイングランド諸州をカヴァーする大ドームズデイ Great Domesday からなっている。ほとんどはラテン語で記載され、一部分原住民の言語で表記されているという。王の権威を振りかざした辛辣な審問であったため、神を前にした告白と審判の日という意味で「ドゥームズデイ」という深刻な名称がつけられたのかもしれない。

  地理空間的な区分による項目というよりも、カウンティやシアーごとに、王領地やバロン・地方貴族の所領・支配地による区分にもとづく――支配=従属関係に照応させた――土地・住民台帳として編纂した。つまり、カウンティや州の権力構造に照応させて、そこにそれ以下の地理的単位、ハンドレッド、タウンシップを系列的に帰属させ、あらゆる地区や集落―― town, village, hamlet――を上位の単位に系統化・編合した。つまり、文書の編纂そのものが、あらゆる住民集団や住民単位を行政管区ごとに系統化することになった。
  王は調査のために権限を持つ官吏を派遣した。王室法務官 legati regis が各州を訪れて、州評議会法廷という集会を開催し各郡区や集落 township の代表ならびに地方領主を召集して審問(宣誓のうえ聞き取り調査)をおこなって実情を把握し記録した。聴き取り対象となったのはハンドレッド単位で、代表や領主たちは、法務官が任命した12人の地方裁判官(半数は在地住民、半数はノルマン人)の前で宣誓させて陳述させた。

  調査内容は、所領や保有地の広さ、所領の所有者(領主・地主)は誰か、その領主から授封された家臣・従者は何人で、さらに下位に借地人や小作人は何人いるか、土地の利用状況、農耕地ならば耕作・作付状況、飼育する獣畜の種類と数、犂の台数、収穫量または収入、地代や貢納の額、土地の価値(貨幣額)はいくらか、などだった。   資産や地位によって住民を階級別に区分し、より上位の者に帰属させる把握方法は、統治のための身分序列を組み上げることでもあったともいえる。
  調査の目的は2つあったという。 ひとつは、これを課税台帳とした――財産税や上納賦課金の額を決定する基礎資料とすること。イングランドに地方貴族や王の家臣たちがどれだけの富、土地、収入を持っているいて、どれだけの担税能力を備えているか、を把握することだった。   2つ目は、富と貴族たちの財政規模、財政能力とその地理的分布・配置を把握することで、地方貴族層の軍事的能力を把握し、軍政や統治の基礎情報とすることだった。
  このような露骨な権柄づくの査察は、まさにイングランドを征服した王の権力を見せつけて、有無を言わせず、貴族層や都市の経済的・財政的能力を申告させ調べ上げるもの、すなわち統制ないし威令の発動であった。このように統治と支配、税や貢租の上位者への納入=収取関係を系統化し、住民を数値的に把握することによって、ヨーロッパのほかには見られないほど特異な征服王の統治レジームを基礎づけることができた。

ⅱ 教会組織および貴族との葛藤

  だが、イングランドでの集権化を進める王室に対抗する力は存在した。教会組織である。汎ヨーロッパ的権威を標榜するローマ教会の司教や修道院長などの教会役員は、イングランド王国で広大な土地と収入、そして従者団をもつ有力貴族でもあった。彼らは一方で宮廷の高官として王に臣従しながら、他方でヨーロッパ的規模で編成された教会組織のエイジェントとして教皇庁の統制にも服していた。教皇庁は彼らを教皇の代理人として任命し統制することを望んだが、王権は自らの授封臣として叙任し統制することを欲した。
  古代ローマ帝国以来継承してきた古典教養と文書管理能力を備えた教会役員は、宮廷や中央官僚による統治実務の中枢を担っていたので、教会役員に対する叙任権・統制権を握ることは、王権の安定のために不可欠の手段であった。他方で、教皇庁は教会組織の人事権=叙任権を手放すわけにはいかなかった。ゆえに、そこに権力闘争が発生するのは避けられなかった。これが、10世紀から12世紀にかけて教皇庁とヨーロッパ各地の君侯との間に生じた叙任権闘争の背景であった。
  長い闘争ののち、イングランド王は新しい司教を実質的に選ぶ権限を獲得し、教皇による形式的な叙任の承認を受けたのち、国王に授封家臣として臣従を誓うという妥協が成立した。王権は、教皇庁による直接の統制から切り離したイングランド内の教会組織に対して支配を強めていった。
  アンリ(ヘンリー2世)は、聖職者をめぐる裁判を王室裁判所に取り込もうとして、教会と対立した。従来、聖職者の事件は、教会法 Canon Law によって運営管理される特別な裁判所で扱われていた。王権と教会との対立は、聖職者の刑事事件は教会法裁判所に引き渡し、聖職者の言動が王権の統治にからむような政治事件は王室裁判所の手にとどめられるという決着をみた。こうして、王の主権について教会が介入する権限を封じこめてしまった。

  王の平和を維持する規範としてすべての王権裁判所で妥当する Common Law (普通法)という法体系が成長してきたのも、その頃であった。普通法は、あらゆる地方的な規則や領主裁判権、慣習の上に立ち、イングランド全域をつうじて共通の効力をもつ一群の法規範の集合だった。それは、刑事事件については征服以前からのアングロサクスン慣習法の諸原理と判断方法によるものとし、土地法有権および財産権については征服後に集積され、王権裁判所によって集約された判例法によるものとしていた。13世紀末には、普通法の上級中央裁判所として財務法院、王座裁判所などはウェストミンスターに固定された〔cf. Morton〕
  それらは、文書や裁判手続きが整理されていくとともに司法機関として専門化し、統治全般への関与は浅くなっていった。
  ローマ法――地方的・慣習的法規範をより上位の法体系に統合する理念として利用された――は、ヨーロッパ大陸では浸透し成文法典化したが、固有の原理ではイングランドには定着しなかった。その結果、ローマ的諸原理に立つ教会法は、普通法の海原のなかでごく限られた領域に孤立してしまった。
  それは、領主貴族層が領主高権を守るために、ローマ法を拒み普通法を擁護したからでもあった。より上級の普遍的権威への服従を求めるローマ法の原理は集権化に適合しやすい論理をもつことから、教会はその論理を根拠に国王の集権化を支持し、あわよくば領主層から教会法裁判所に管轄権を奪い取ろうとしていた。その姿勢に、領主貴族たちは反発したのである。

  王権の強化・拡張にチェックが入ったのは、13世紀前葉に王権と貴族との対抗から大憲章 Magna Charta ( Great Charter )が取り結ばれたときであった。集権化が、それまでの王と領主貴族とのあいだの権利・義務の均衡関係を打ち崩すところまで進んだからであった。
  それまでにも王には、平和を維持する義務、戦時に軍隊を指揮する義務、家臣である貴族の封土=所領の占有を保護する義務と、こうした義務を果たすために貴族に一定の税・貢租を課す権利、軍事的奉仕やその他の役務を貴族に要求する権利、土地の究極的所有者として家臣の臣従を誓わせる権利が認められていた。王の家臣としての貴族にも、これに照応する権利・義務が認められていた。
  13世紀はじめ、ジャン(ジョン)王は王権を強化するため、こうした慣習法的規則を破り、「大陸での戦役」のために機会を見つけては高額の賦課金や税を課したり、正当な裁判なしに家臣の領地を没収したりした。さらに、ジャンはカンタベリー大司教の叙任をめぐって教会とも紛争を引き起こした。そのため、イングランド規模で結集した領主貴族と教会の挟み撃ちに会って、ジャンは妥協を強いられた。その妥協の産物が大憲章であった。
  この協約は、「自由人」の人身的・財産的権利を認め、王の統治を監視するために25人の領主貴族からなる評議会を設置することなどを主な内容とし、この時点での王権と貴族層との力の平衡状態を表現するものだった。それは、王国統治にかかわる王の主権が土地所有階級の私的権利を保証することを条件として成り立つという論理を確認するものであった。それは、貴族の所領内の統治は貴族の家政装置にゆだねるほかはないという実情を反映していた。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第1篇
 ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市

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序章
 世界経済のなかの資本と国家という視点

第1章
 ヨーロッパ世界経済と諸国家体系の出現

補章-1
 ヨーロッパの農村、都市と生態系
 ――中世中期から晩期

補章-2
 ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
 ――中世から近代

第2章
 商業資本=都市の成長と支配秩序

第1節
 地中海貿易圏でのヴェネツィアの興隆

第2節
 地中海世界貿易とイタリア都市国家群

第3節
 西ヨーロッパの都市形成と領主制

第4節
 バルト海貿易とハンザ都市同盟

第5節
 商業経営の洗練と商人の都市支配

第6節
 ドイツの政治的分裂と諸都市

第7節
 世界貿易、世界都市と政治秩序の変動

補章-3
 ヨーロッパの地政学的構造
 ――中世から近代初頭

補章-4
 ヨーロッパ諸国民国家の形成史への視座

第3章
 都市と国家のはざまで
 ――ネーデルラント諸都市と国家形成

第1節
 ブルッヘ(ブリュージュ)の勃興と戦乱

第2節
 アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗

第3節
 ネーデルラントの商業資本と国家
 ――経済的・政治的凝集とヘゲモニー

第4章
 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折

第5章
 イングランド国民国家の形成

第6章
 フランスの王権と国家形成

第7章
 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成

第8章
 中間総括と展望