第5章 イングランド国民国家の形成
この章の目次
17世紀をつうじて、イングランド政府も商業資本も世界市場からの富の獲得の手段としては、独自の植民地を建設するよりも、すでに存在する植民地――それが他国のものである場合が多かった――との貿易経路に割り込むことが優先されていた。イングランドには、植民地を建設するための大規模な投資を可能にするような余剰資本の蓄積がなく、過剰人口もなく、なによりも国家装置には海外領土を管理できるような機構と能力がなかったのだ。商人たちの経営に蓄えられた資本は、植民地建設事業よりもはるかに高い収益をもたらす貿易に向けられる傾向にあった。
アメリカ植民地では定住地や集落の建設のために、ヨーロッパ産の生活用品が必要で、イングランドなどの後発国や小国が貿易に割り込む余地が広く残されていた。とくに原住民を絶滅させてしまったカリブ海のエスパーニャ人植民地では、アフリカ人奴隷が高額の商品として取引きされていた。またヨーロッパ市場では、胡椒や香辛料、たばこ、砂糖・糖蜜など遠隔地から輸入された商品に高い付加価値が認められていた――高い代価と引き換えに新たな嗜好や食習慣になじむことは、富裕な諸階級にとっては権威や地位を誇示するために大事な手段だった。高値で売買される奢侈品を獲得しようとする経済的価値評価についての共同主観は、そのような商取引に優越を与えたからである。
イングランド商人――ときには海賊行為をおこなう船長たちも含まれていた――は、エスパーニャ人植民地との交易およびインド洋交易に割り込んでいった。エスパーニャ王国の利害との対立がこうして構造化したのだ。
このような貿易に向けて商人を政治的に結集させ、その排他的な経済的・政治的特権を国家装置をつうじて保証する仕組みが特許会社 chartered companies であった。
16世紀の後半から末に向にかけて多くの特許会社が出現した。会社 company とはいえ、この当時は――カンパニーの本来の意味合い通りに――商人人集団の仲間組織ないし協同組合団体というべき結社だった。1579年にはバルト海とスカンディナヴィアでの取引きをおこなうイーストランド会社、1581年にはレヴァント地方との取引きを取り仕切ったリヴァント会社、1588年には奴隷貿易を組織したアフリカ会社が設立された。
これらの有力な特許会社はロンドンに本拠を置き、国外の競争相手とだけでなく、イングランド内部での通商上の支配を強めるためにニューキャッスルやブリストルなどという国内の港湾諸都市の商人団体と攻めぎ合っていた。特許会社の設立と運営は、王権と結びついた特権的保護――すなわち王室による特許状
charter の授与によって特定の外国地域や品目の商取引きの独占権を認める制度――をつうじて世界貿易の担い手とその経営活動をロンドンに集中させることで、ロンドンという都市団体とその有力商人の政治的影響力を高めることになった。
ところで、それまでにもロンドン冒険商人組合のような遠距離貿易商人たちの特権的団体が存在した。こうした特権は、取引き規制の法的権力を持つ王権から個人や団体に対して金銭的見返りと引き換えに与えられた排他的特権(独占特許権)であった。ゆえに王やその取り巻き連の恣意や利害によって制約を受けることが多く、ただ王室収入の増加のためにだけ闇雲に特許状が乱発されることもあった。そして、世界市場でのイングランド商業資本グループの優位とか、国民的規模での富の蓄積とかいう戦略的利害と大きく食い違うこともあったようだ。
17世紀半ば以降には、このような利害の食い違いが王室の政策全般に拡大したがゆえに、市民革命と国家機構の再編が不可避になったのである。
16世紀末葉までの特許会社は、このような制度の延長線上のものでしかなく、一定地域で同種品目の貿易をおこなう商人たちが相互の援助と防衛のために結集する団体結社だった。それは、団体が王室や中央政権に対する影響力を確保・保持し、ほかの商人集団の貿易への参入を妨害ないし阻止するための政治的制度だった。結社をつうじて政治的に組織化されながらも、商人たちはそれぞれ単独の資本と単独勘定で取引きし、利潤も損失も単独で抱え込んでいた〔cf.Morton〕。
ところが、1600年のロンドンの栄光東インド会社 Honourable East India Company の設立は、結果的にイングランドの世界市場支配への歩みをもたらす、質的に異なる過程の始まりであった。
東インド会社は、社員が会社の株取得と引き換えに出資した資金を《会社の共同資本》として集積し、会社全体として冒険的に共同の貿易事業をおこない、授業の共同利益から出資額に比例した配分を受け取った。はじめは1回の航海ごとに株の発行と精算(出資と利益分配)がおこなわれたが、やがて持続的な航海に合わせて永続的な資本と経営組織を形成するようになった。
それは、特許会社として王権を代行する政治組織でもあったから、外国の主権者との交渉権、支配地の行政権、刑事および民事にわたる裁判権、艦隊や陸上軍を組織・指揮し、戦争の開始と終結を決定する――宣戦布告と講和締結の――権限をもっていた。いわば、商業活動と植民・征服などの軍事活動によって獲得した収益によって財政的に独立採算で運営する特殊な国家装置だった。ただし、国民国家の中央政府からほぼ完全に独立して行動し、しかもときには本国政府の利害と衝突することもあった。
東インド会社は17世紀はじめに、香辛料交易をめぐってインド洋で優位を誇るネーデルラント艦隊に海戦を挑んで敗れたが、ポルトガル艦隊を打ち破りムガール帝国皇帝から商館と商品集積施設を設立する特権を獲得した。1612年にはスーラト、1620年にはマドラース、1633年にはフーグリに商館を開設した。
東インド会社は、世界市場におけるイングランド商業資本の前進基地として、海外に延長された国家装置として独自の活動を営み始めていた――ただし、本国の中央政府の統制がおよばないところで。
イングランドの栄光東インド会社は、その設立の翌々年(1602年)ネーデルラント連邦のアムステルダムで設立された連合東インド会社(VOC)――イングランドの東インド会社よりもはるかに巨大な組織で、この会社の大株主でもあった――と区別するために「ロンドン東インド会社」と通称される。
ロンドン東インド会社に対して本国の中央政府・議会の統制をおよぼすことができるようになるのは、19世紀になってからで、それもこの会社のインドや東アジアでの動きが本国政府を巻き込む戦争を引き起こす事態が何度も起きたことがきっかけだった。紛争続発の大きな原因のひとつは、会社の経営組織自体が会社に属す個別商人たちの行動を統制できないことだった。そして、会社の株主やそのメンバーが莫大な利益を獲得する一方で、戦費を負担し尻拭いするのは本国政府という結末になる場合が多かった。
だから、本国政府の統制下に組み込まれてからまもなく、1858年にロンドン東インド会社は解散させられ、インドの植民地統治は本国植民地省が直接に担うことになった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成