第5章 イングランド国民国家の形成
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1661年から78年まで開かれた議会(騎士議会 Cavalier Parliament )では、議員たちは大まかに見て2つの党派、すなわち王政の復活と存続に利害のよりどころを求め、支配秩序の安定を重視するグループ(トーリイ Tory )とイングランドの世界貿易での優位の追求を求め、王政存続には比較的冷淡なグループ(ウィッグ Whig )とに組織されていった。この時期、議会は主権の中核的な担い手=国家装置だったので、イングランドの支配諸階級――貴族を含む富裕地主階級と都市の特権的貿易商人――は議会の内部と周囲に組織化されることになった。そして、議会での政治的党派 political parties の形成は、この時代のイングランドの富のと権力の源泉、すなわち土地所有(土地経営)と世界貿易をめぐって、利害の組織化と対立、調整をおこなう仕組みが形成されていったことを物語る。
この議会では、王政復古を求める王党派が多数を占めた。王党派のほとんどが、貴族や騎士などの富裕地主だったので「騎士議会」と呼ばれる。彼らは、ステュアート家の王位復帰を支持したが、やがてチャールズ2世の横暴・無策ぶりに反発抵抗して、反王・反カトリックの姿勢を明確にし、人身保護令 haveas corpus 制定などを推進した。こうして、王党派はしだいに立憲王政を求めて反ステュアート家の立場を強めていく。
とはいえ、実際のところ、富裕地主階級と特権的商人階級とは、すでに見たように経済的利害においても家系的にも相互に融合しつつあった。彼らは、世界貿易をめぐる優位の争奪戦が諸王権・諸国家の政治的・軍事的対抗をともなっているかぎり、王国域内での秩序の安定性や有力諸階級の結集が不可欠であることを、すでに学んでいた。土地利害と世界市場での貿易利害のいずれに重点を置いて自分の利害を見極めるかは、目先の利害、より切迫感を感じる短期的利害の差でしかなかった。
世界経済における諸国家の通商闘争で優位をめざすためには、一方では国民的規模で諸階級――とりわけ指導的諸階級――を統合するための安定した秩序と利害調整のための政策が不可欠であり、他方では攻撃的な通商および対外政策が必要であった。
このことからすれば、支配的諸階級の2大政派への組織化はいかにもありそうなことだった。どちらにしても、王権と結びついて特権を享受する富裕な貿易商人、金融商人、地主貴族などの飛び抜けて有力な地方名望家からなるきわめて少数のグループだった。
支配的諸階級にとって、王室は最有力の、それゆえ模範となるべき地主貴族家門――最大最高の土地所有権力の保持者――と見なされていたから、王家の復位は当たり前の政策となった。しかし、王権を抑制するために、王と議会とがどのように権力を分担し合うか、王の政府はどのような利害に最も配慮すべきかについては、規範や枠組みはなかった。
さて1679年の選挙では、ウィッグが多数派を形成したが、チャールズ2世による81年の議会解散を経て、治安判事職の多数がウィッグ党員からトーリイ党員に置き換えられていった。つまりは、土地利害の貿易利害に対する優越ともいうべき事態だった。ロンドンをはじめとする自治都市の特許状は破棄されるか、王権への全面的従属と引き換えに承認された。そして、85年に王位についたジェイムズ2世はカトリック勢力の拡大を画策していた。
だが、奇妙なことにこの時期は、エスパーニャ植民地を侵食して密接な貿易関係を確立したイングランドの世界貿易での地位が上昇し、アジアでの東インド会社の立場が強化され国内でも有力な政治勢力を形成するようになっていた。つまり、ウィッグの社会的・経済的基盤は強まっていたのだ。以上のことからすれば、世界市場での商業資本の優位と土地経営諸階級の利益、これが政治権力の政策的目標、支持基盤となるはずだった。
ところが、ジェイムズは王権の意のままになる直属の軍を3万の兵力に増強し、その半数近くをロンドンの周囲に配置した。しかも、この軍隊の士官には多数のカトリック教徒を任命した。さらに、枢密院の閣僚――各顧問会議の首席顧問官が大臣として参加――、司教や治安判事にもトーリイ党員に代えてカトリック教徒を押し込んでいった。王の専制に従順な中央政府・地方装置をつくり出そうとしたようだ。
だがむしろ、この策謀はトーリイとウィッグを反対派に結集させることになった。この局面でイングランドのカトリック化とは、骨格が固まってきた商業資本と貴族・地主の国民的結集――エリートの権力ブロック――を弱め、これと軍事的・経済的に対立する(それゆえ打撃の対象になっている)エスパーニャ王権との妥協を意味することになった。
それもこれも、国家装置体系のなかで時代錯誤的に不釣合いに強い王の権力=地位が原因だった。王権は、ブルジョワ化した――ジェントルマン(商業化した地主貴族と貴族化した特権商人)が多数派を形成する――国家諸装置によって厳格に統制されねばならなかった。
1687年、両党派は、チャールズの娘メアリーの夫君にしてネーデルラント連邦総督のオラニエ公ウィレム(ウィリアム)を招請した。11月にウィリアムの軍はデヴォンシャーの海岸に上陸し、進軍した。ジェイムズの軍は反撃することもなく、総崩れになった。翌年2月の仮議会はウィリアムとメアリーに共同王位を与えた。そのさい、王権の存続と運営の条件を権利宣言 Declaration of Rights と権利章典 Bill of Rights ――臣民の権利と自由を宣言し、王位継承を規定する法律――によって厳しく限定した。
これ以後、実質的に王は軍や判事を支配することが許されず、議会が制定した法律を停止したりこれに違背したりすることを禁じられた。そして財政は議会庶民院によって管理され、この議会は少なくとも3年に1度は召集されるものとされた〔cf. Morton〕。そして信教の自由を保証する寛容法 Toleration Act は、財産と経営能力をもつ諸階級の政治的凝集を優先するウィッグの勝利の表現だった〔cf. 村岡 / 川北〕。
ただしウィレムは、フランデルンへの支配の拡張をもくろむフランス王権と軍事的に対峙するホラントの君主であるとともに軍事的指導者だった。イングランド王としてのウィレムは、ブリテンの王権の対外政策(戦争政策を含む)を大陸でのネーデルラント連邦の地位を守るために動員しようとしたから、イングランド王権は大陸でのフランス王権との対抗を意識したヨーロッパ政策をとっていくことになった。それはイングランド商業資本の戦略に影響を与えた。
名誉革命の一連の諸改革によって、一方では財政と対外政策などの中央国家装置は商業資本(政派としてはウィッグ)が掌握してその管理に必要な金融財政装置と政策を創出し、他方では国内の治安と地方政治は地主階級(政派としてはトーリイ)が掌握するという二重の権力構造が形成された。こうして、世界貿易・金融と土地経営という2つの利害ブロックが、長期的には妥協しながら、ときにはあれこれの政策をめぐって衝突する政治構造がつくりだされた。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成