第5章 イングランド国民国家の形成
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ところで、ブリテン島がヨーロッパ大陸から海洋によって隔てられているため、当時の軍事的テクノロジーや運輸通信手段のレベルから見れば、海外の軍隊の侵入は最低限の要衝防備で防ぐことができたし、王と王族を除けば大陸の紛争にコミットできるほど有力な貴族は存在しなかった。ブリテン島の内部で地続きに辺境を接していたのはスコットランドとウェイルズだけだった。ゆえに、王国の統治に要する軍事的コストは大陸に比べてはるかに小さくてすんだ。ひとたび王権の支配が打ち立てられれば、海洋という自然の障壁が、王権を脅かすほどに有力な大陸の君侯による軍事的・政治的介入を防いでくれた。
アンソニー・ギデンズがいうように、中世の政治体には「国境 state border 」はなく、君侯の権威や権力が希薄化・極小化している辺境
frontier によって縁取りされていた〔cf. Giddens〕。王国や帝国の版図の境界は、中央権力として振る舞う君主の権威の盛衰にによって、そしてまた辺境領主たちの行動や君主との関係によってかなり大きく変動した。というのは、中世の王国や帝国は領土的結合ではまったくなく、君主を含めた領主貴族たちの属人的――パースナルな臣従誓約にもとづく――同盟関係によって成り立つものだったからだ。
先進的なイタリアでは少なくとも14世紀までは、そのほかヨーロッパ大陸の多くのところでは16世紀まで、君侯や領主の支配圏域には「国境」と呼べるシステムはなかった。辺境ないし勢力範囲の境界線は森林や山岳、荒蕪地におおわれていて、何がしかの「境界」を防備する部隊や要塞、道路や河川に設けられた検問施設は、国境ではなく、細かく仕切られた関税圏や都市城壁に随伴する装置だった。
勢力圏の境界はそのときどきの力関係によって容易に塗り替えられた。だから、地続きに互いに勢力圏が隣接し合っているヨーロッパ大陸の君侯たちは、その支配圏域の防衛のためには、かなりの軍事力と財政力を必要としたことになる。必要な財政収入を確保し、軍を統制する行政装置=官僚制――これ自体も相当の金がかかる――が必要だった。
それに比べれば、海洋による障壁というイングランド王権の地政学的「幸運」こそが、いち早い「領域国家」形成を可能にしたといえる。そして対内的には、王権の側でも領主貴族たちが居住する城砦を取り壊し、軍事的に無防備な領主館 Manor House に居住させるようにしていった〔cf. Morton〕ため、王国統治のリスクとコストは著しく低く抑えられた。そして、フランスのように高度の軍事的自立性を備えた城砦領主が分立割拠する状況が生まれにくくなった。
こうして、「王の平和」はイングランドでは現実であった。辺境の向こう側を見ると、北部ではスコットランドのような弱小な王国が生まれ、ウェイルズにはまだ半ば部族的な小侯国が分立していたけれども、イングランド王権の脅威にはならなかった。国境システムがない時代であればこそ、辺境の向こう側、スコットランドやウェイルズに領地をもつイングランドの領主層もあった。所領を防衛する実力をもつ領主たちは、形式的な臣従関係を取り結べば、あるいは相続によって、複数の君主から封土を認められるのは、当たり前だった。
イングランドでも国境という制度ができ上がるのはずっと後の時代だが、この王国は海洋によって取り囲まれた島嶼にあったので、自然要害によって大陸から分離された軍事的=政治的環境を用意した。そのことが、領域王権国家――特定の地理的範囲で住民が王権によって政治的に組織され、域外からの政治的=軍事的介入を遮断できる状態――の生成を著しく早めることになった。
ヨーロッパ的文脈で見ると、ノルマンディ公はもともとフランク王国の有力君侯であり、フランス平原北部に広大な所領と勢力圏をもち、フランス平原で強い影響力をもっていた。この所領と支配圏域はノルマンディ公の軍事力によって獲得したものだが、名目上=封建法上は西フランクの王から授封された知行地(封土)であった。そのため、征服王は毎年のようにイングランドの従臣を引き連れて海を渡り、フランス北部・西部に遠征していた。
というのも、フランスでは有力諸侯や領主たちのあいだで領地争奪戦が繰り返されていたため、公は軍事力や権威を誇示伝達し領地の支配権を確保するために大陸各地の巡行が必要だったからだ。ノルマンディ公家は、フランスでの領地ないし勢力圏の拡大のために通婚政策によって、これまたフランスきっての名門アンジュー伯家と結びついた。
ところがイングランドでは時の経過とともに、征服直後の王による軍事的統制が緩むにしたがって、各地方に王権直属の授封臣として派遣され、やがて定着した領主貴族たちは在地の権力を拡張することになった。バロン各家門は爵位と領地を世襲する――封建法の観念からすると、本来は王と地方貴族の双方の代替わりのたびに臣従制約関係を取り結び直すことが必要だった――ことによって、王とのパースナルな臣従関係が希薄化するのは避けられなかった。そのほか、征服戦争ではノルマンディ公に味方してその後も存続した旧来からの領主層もいて、もともと王権からかなりの自立性を保っていた。
領主諸侯に対する有効な統制手段をまだ創出できていなかった王権は、地方貴族の臣従誓約の確認や更新と引き換えに、特権や領地授与などの恩顧によって《王権が優越する秩序》の安定を維持しようとした。他方で下級領主・騎士たちは、地方の有力諸侯との臣従関係を強めることで自己の権益を保証しようとした。しかも、教皇庁がヨーロッパ全域で教会や修道院に対する統制を強めていたから、宮廷の有力者でもある高位聖職者や教会・修道院組織の王権に対する自立性も高まった。
王室の権威は後退し、ノルマンディ公家の直系が絶えると、1130~1140年代には王位継承をめぐって有力諸侯のあいだの紛争が続いた。この紛争は、諸侯の消耗のうちに収まり、12世紀半ばには、ノルマンディ公家と血縁関係にあるアンジュー伯アンリ――イングランド王としてはヘンリー2世――がイングランド王冠を戴き、アンジュー=プランタジュネ(プランタジネット)家の支配が始まった。
そこで、新たに王位を獲得したアンジュー家のアンリ(ヘンリー2世)によって12世紀後半に王権の再編強化がおこなわれることになった。
ノルマンディ公を兼ねたアンジュー伯は、ノルマンディ公領とアンジュー伯領に加えてアキテーヌ公領も獲得し、フランス北部および西部にさらにまた広大な所領を保有していた。やがてカペー王朝が弱体化し、事実上、西フランク王国が分解すると、イングランド王であるアンジュー侯は、西フランクで最大の支配圏域を領する独立した君侯として振る舞うようになった。その権力を背景にアンリは、イングランドでは王権の強化と集権化に取り組んだ。
イングランドでは、ノルマン征服王権によって中央集権的な領域国家の形成が始まり、次いでアンジュー=プランタジュネ王権による集権化が進むことになったが、ドーヴァー海峡の対岸では封建法的慣習に沿って統治システムが動いていたようだ。大陸では分立割拠する多数の領主の足の引っ張り合いが激しくて、領域国家への動きはのろくさく、国境システムが生まれるのはまだずっと先のことだった。なにしろ、旧西フランク王国の統治をめぐっては、フランデルン、ライン地方から、地中海、イベリアの北東部にまでおよぶ広大な地域の君侯・領主たちの動きが絡んでいたのだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成