第5章 イングランド国民国家の形成
この章の目次
15~16世紀は、イベリアの諸王権による大西洋航路の開発とアメリカ大陸の収奪という重要な要因がヨーロッパ世界貿易に加わって、ヨーロッパ経済の中心が決定的に北西ヨーロッパに移動した時期だった。メクシコやチリ、ペルーからヨーロッパに送られた銀は、しばしば起きる海賊の襲撃や難破によって被る損害を埋め合わせるコストや、船舶に重装備を施し保険をかけるために要したコストを差し引いても、なお北イタリアや南ドイツ、ネーデルラントの商人たちに巨大な利潤をもたらした。この時代に大西洋貿易を政治的に取り仕切ったのはエスパーニャ王権やポルトガル王権だった。
だが両王国ともに域内には、その新たな海外属領を開発するために必要な資本や財貨の大部分を供給する産業も、そこで収奪あるいは生産した富の主要部分を国内に吸収・定着・蓄積させるための産業や金融・商業組織も、もち合わせていなかった。イベリアの諸王権政府は貴金属を国内にとどめておこうと試みたが、域外商業資本への依存構造ゆえに、貴金属はヨーロッパ中に流出していった。あふれ出た貴金属は、各地の商業資本の蓄積を加速するとともに、国家形成をめざして富裕な地域を支配しようとする諸王権の軍事的対抗を刺激した。
テューダー家の諸王のもとでの国家装置と統治体制の再編成は、このような文脈のなかでおこなわれた。この再編をつうじてイングランド絶対王政が確立されていった。
15世紀末、王位を継いだヘンリー7世は、バラ戦争で有力貴族の多くが没落・消滅しその土地が王領に編合されるという状況のなかで、旧来の有力貴族の軍事的・政治的権力を切り崩し、王室財政を立て直して、イングランドを全面的に王権の支配のもとに引きすえるための政策を実行した。旧貴族の軍事力を解体するために、ヘンリーは大砲を王室独占とするとともに、貴族に従者の扶持を禁止した。というのは、王権の権威を回復するためには、貴族の軍事的な勢力基盤だった従者団を解体しなければならなかったからだ。
1484年からは、王室家政装置の強化を背景として王顧問会議の組織改革を進めた。王権の統治機能を強化するため、顧問会議のなかに通常組織とは別に必要に応じて星室会議
Council in Star Chamber を設立し、地方の騒擾や反抗的な貴族の制圧に容赦なく用いた。また、王室の財産権・財政権の行使を指導する法務官会議
Council learned in the Law を設立した。ヘンリー7世は旧来の大貴族の権威を切り崩して、王顧問会議のメンバー(顧問官)を自由に選ぶ権利を確立した。やがて星室会議は、国民的規模での治安および司法装置の中核=頂点としての役割を果たすようになり、その影響のもとで地方の裁判機関・行政装置が復元ないし再組織されていった。
⇒ Star Chamber についての参考資料
イングランド全体の地方裁判・行政装置は、15世紀中葉の貴族たちの闘争による混乱のなかで、崩壊状態に瀕していたものであった。ヘンリーは古い貴族家門を圧迫しながら、有力商人層と大土地所有層から王に直属する顧問官や法務官に抜擢して新しい貴族として叙任した〔cf. Morton〕。このような行政・司法装置をつうじて、ウェイルズも王権の行政機構に編合された。
1540年には、次王ヘンリー8世の恩寵を受けた首席顧問官――国務卿または国務長官とも呼ばれる――トーマス・クロムウェルの指導のもとで、顧問官の集団組織が枢密院
Privy Council として正式に設立された。枢密院は、議会(貴族院)にではなく王に対してのみ責任を負ったが、王は彼らの助言を必ずしも尊重しなかった。枢密院は、行政の必要に応じていくつかの機関を組織した。
星室会議は枢密院のなかの特別集会を意味することもあるが、一般のコモンロー法廷(裁判所)では告発・糺問できない有力貴族などの私闘――私兵団を駆使した横暴――や犯罪を裁くために、王が枢密院の顧問官団とコモンロー裁判官とからなる法廷を組織した集会を意味する場合もある。というのは、王の顧問会議は立法や政策決定に関する審議の場であったが、最上級の法廷でもあったからだ。そのため、とくに法廷として機能する集会を星室裁判(所)と呼ぶこともある。
やがて16世紀半ばには、枢密院は地方行政の担い手として治安判事を直接に指揮統括するようになった。これは、特別税の賦課徴収による戦費調達など戦術的に必要なとき以外は議会を召集せずに、枢密院を頂点とする王直属の司法・行政装置の内部で王権と有力ブルジョワジー――有力商人層(いまやその指導層が貴族となっている)と企業家的な有力地主層――との利害調整をはかりながら政策を遂行するメカニズムをつくりだし、王権を強化することになった。
治安判事たちは、かつては主に地方の有力貴族が支配する統治装置の一環をなしていたが、もはや王権に立てつくことがなくなった地方貴族たちの支配下から離脱させられ、いまや王権に直属する地方行財政・裁判のエイジェントとして機能するようになった〔cf. Anderson〕。彼らは、地方行政区(教区)で法廷を開き地方の治安を守るだけでなく、労働者の賃金を決め、雇用主と従業員の関係を規制し、貧民法を執行し、貧民税を賦課し、公道や橋を修理し、商業・貿易と産業を規制する権限=任務を負っていた。
これらの主要職務をめぐる政策決定は、年4回の季節法廷でおこなわれた。治安判事は主にジェントリ(中規模地主・小土地所有階級)出身で、法観念上、中央政府から任命され枢密院顧問官からの指令で動く無報酬の地方行政官として、司法から産業政策・労働政策・社会政策について広範な権限を行使することになった。王権は、イングランド全域で治安判事の職務を解説し方向づけるために手引書を刊行した。こうして、地方では中央政府の統制を受けながら、地主層の利害を色濃く反映する統治機構がつくられたのである。
そして一方では、有力な貿易商人および金融商人が豊かな資金で地方の土地を買い取って地主階級の列に加わり、他方では、子弟を商業に就かせたり、自ら貿易や投資を営む土地貴族・ジェントリが現れたことで、両階級の結びつきは強まっていった。
上記のように、イングランドでは王権の中枢組織に直属する地方行財政装置が形成されていったことから、「王権レジーム」と「王国レジーム」との分離が生じる余地がほとんどなくなった。広大な版図を有するエスパーニャやフランスでは、王国レジームが地方の有力貴族層が結集して、王権に対抗して地方の分立や自分たちの地方特権を保持するために依拠し立てこもる拠点となることが何度もあった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成