第6章 フランスの王権と国家形成
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ところが、15世紀末から16世紀初頭にかけて、ハプスブルク王朝といたるところで戦争をおこなうヴァロワ王権が要求する課税や賦課金の額は法外なものになった。それゆえ、地方的特権を維持しようとする都市や地方集会から選出された代表たちは、総評議会で王の課税提案を拒否するようになった。聖界・俗界の貴族身分は免税特権を保証されていたので、総評議会には冷淡になり参集しなくなっていた。課税の重圧はもっぱら都市代表に向けられていた。
総評議会の課税への同意と財政的貢献を期待できなくなった王は、16世紀になると、総評議会を召集しなくなり、こうして総評議会は開催されなくなった。1517年を最後にそれ以降ほぼ1世紀のあいだ、金融・財政能力に富んだ都市の代表が王の諮問に召集されることはなかった。
王室財政の収入増加が求められたが、しかしながら総評議会の召集を条件とする全般的な課税の拡大はできなかったので、1522年以降、金利生活者に公債を売りさばいて歳費をまかなうことになった〔cf. Anderson〕。そのほか、さかんに官職売買 vénalité des offices をおこなって王室収入を増やそうとした。王権は場合によって多くの新たな王室役人職を創設して、主に特権的な富裕商人層に売りつけた。
このことは、総評議会の開催と運営にともなって王室財政装置と結びついた常設的な行財政制度の仕組みを王国各地に浸透させていく動きが生じていたのに、これもまた停止し、消滅してしまうことをも意味した。王権は、財政収入の確保と権威の伝達・浸透を、支配的ないし有力な諸身分・諸階級の個別メンバーとの単独交渉によって進めるしかなくなった。
こうしてヴァロワ王権は、身分制評議会という仕組みを利用できなくなったので、王直属の高官の派遣や独特の司法・行財政装置の形成を一方で進めながら、他方では宮廷での派閥人脈やら各個交渉、駆け引きによる個別の恩恵関係を有力諸侯と取り結ぶことによって、地方への王権の影響力をおよぼすようになった。
だが、これによって王国規模で広範に有力諸階級を政治的に結集・統合させていく国家装置――将来、国民的結集の枠組みになるはずの仕組み――の成長が妨げられてしまった。こうした装置を介在させることなく王権による集権化が進められることになった。
そのため、歴代の諸王の人格やその派閥人脈から相対的に自立した安定した中央国家装置の形成はなかなか進まず、王権を支える有力諸身分の広範な政治的結集も進むことはなかった。それゆえまた支配的諸階級、とくに貴族と富裕商人層が王国=国民的規模で集結し、王権と相互作用するような土壌がつくられなかった。したがって、王座を取り巻く力関係によって、王権の盛衰が左右された。
さて、戦乱による荒廃から統治秩序を再建するため、ヴァロワ王権は、とくに兵站管理の側面から王室と縁戚関係にある有力貴族や諸侯を州総督 gouvernements / lieutenents に任命し、12の州=総督管区の統治を委任した。だが、やがて総督職は世襲化され、それぞれの管区の内部で有力諸侯は傭兵団を組織しながら、広範な領主特権を行使し、王権から自立的に振る舞うようになった〔cf. 中木 / Anderson〕。
また、王権は地方領主層の裁判権を吸収・統合するため、15世紀半ばから王領地の外部の各地に王の直轄法廷として高等法院 Parlements
を新設するか、あるいは諸侯の上級裁判装置を吸収して高等法院に改組し、領主や都市の裁判の上級審級として位置づけ、そこに領主裁判所から治安・政治事件や重要事件を奪い取っていった。そこではローマ法の原理を援用して、地方の法慣習や判決に対する王令の至高性と普遍性が強調されることになった。
遠隔の地ラングドック地方のトゥールーズには1443年に、グルノーブルには1453年に高等法院が設立された。16世紀にはパリを中心にトゥールーズ、ドーフィネ地方のグルノーブル、ギュイエンヌ地方のボルドー、ブルゴーニュ地方のディジョン、ノルマンディ地方のルーアン、プロヴァンス地方のエイ、ブルターニュ地方のレンヌの8か所の高等法院が活動した。財政については会計法院
Chambres comptes と租税法院 Cours des aides が管理した。これら3種類の大権法院 Cours souverains の官職は王室による売買取引きの対象となった。遠距離貿易や卸売りを営む特権的ブルジョワはこれらの官職を買い取り、身分的上昇に成功すれば、数代を経て王権による集権化に加担する法服貴族
Noblesse de robe になっていった〔cf. 中木〕。
この局面における王権による大権法院の官職の売渡しは、王権の諸地方への浸透・貫徹を考えたうえでのものではなく、主として王室の財政収入を増やす手段としておこなわれた。したがって、このような官職からなる諸法院を系統的に統制する手立ては設けることはなかった。
彼らは官位の俸禄として得た所領、あるいはすでに所有する所領を地主として経営するようになっていった。なかでも貴族身分を獲得した者は特権身分として租税
taille を免れた。
しかし、官職売買と貴族・官職身分の免税特権はフランス商業資本の蓄積と権力ブロックとしての成長を妨げていくことになった。遠距離貿易や卸売商業で富を蓄えた商人たちが、官職を買い取って商業から身を引くことは、蓄えた富が王室や土地購入に回り、商業への再投資、商業資本の継続的蓄積に回らなくなることを意味したからだ。そして、厳しい競争に堪えながら稼得した利潤のかなりの部分を王権から税や賦課金として取り立てられる商人身分でいるよりも、官職を買い取りやがて貴族身分に上昇することが成功した商人のライフスタイルと考えられるようになった。というわけで、イングランドやネーデルラントに比べて、フランス王国の富裕商人層の結集と権力の拡張はなかなか進まなかった。
さて、王権によって組織された一群の地方高等法院ではあったが、官職の世襲化とともに管轄区での自立性を高め、王権の統合政策に対して地方的利害を主張するようになった。ヨーロッパ諸王権の対抗(貿易競争)のなかで彼らをヴァロワ王室の周囲に政治的に結集させ国民としての意識と政策を形成する身分制諮問組織は――1617年以降1614年まで――なかった。
もともと王に直属する最高の司法・統治機関として位置づけられていた高等法院は、王の立法行為に対する法令登記拒否権と異議申立権をつうじて、王政の運営に干渉する権限をもっていた。いまや、このような権限を保有したまま、いくつもの高等法院は王権からかなりの程度に独立した統治組織になっていた。高等法院のなかでも身分的特権や地方的利害に固執する組織は、王権による集権化を抑制阻害する動きをとった。
これに対して、王権中枢にあって、集権化の担い手となったのは、国王顧問会議 Conseil du Roi の事務官房の上級官僚である訴願審査官 maitres de requetes たちだった。彼らは、各分野、各地方、各級の裁判権への影響力を強めて、しだいに王の司法管轄権の範囲を広げていったが、高等法院への統制をも強化しようとした。訴願審査官団は、パリおよび地方の高等法院は国王顧問会議から分化した部局であるという理論のもとにそれらを王権の統制下に組み込もうとした〔cf. Anderson〕。
とはいうものの、ペリー・アンダースンによれば、王権の行財政組織は膨張したが、王の専制支配にはほど遠く、統治は伝統的な手続きにしたがってあれこれ制約を受けていた。たとえば、文書主義的な法慣習によって王の命令は形式上、高等法院の裁可と登記を経なければ法令にならなかったうえに、しばしば王令はいずれかの高等法院による異議申し立てを受けて登記を拒否されることがあった。教会組織を王権の支配装置として掌握することも不充分だった。王は教皇庁とのボローニャの和約で上級聖職者(教会・修道院役員)の叙任権を獲得したが、教会・修道院組織の財産への課税権はもちえなかった。そして、相変わらず地方の身分集会や貴族層の特権に配慮しなければならなかった〔cf. Anderson〕。
そして、都市での主要な税収をめぐっては、具体的な課税計算と徴税は、その権利を投資の対象として買い取った金融商人が(王権の統制からかなり自立して)おこなっていた。むしろ前進したのは経済政策だった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成