第6章 フランスの王権と国家形成
この章の目次
シャンパーニュの大市
パリの東南に位置するシャンパーニュ地方は、リエージュやブレーダの畔を通ってネーデルラントの河口に達するマース河、ライン河の支流モーゼル河、セーヌ河という水量豊かな河川に囲まれ、舟運を主要な輸送手段として東西南北に通ずる絶好の地理条件を持っていた。そして、この地方を統治したシャンパーニュ伯は、この巡回市場の仕組みを保護した方が財政収入の増大になると考え、市場の自主性を保証して12世紀半ばにラニーの市場開設税を免除するなど、この市場を訪問する商人の保護に努めた。
大市は1回あたり40~50日間、隔月の年6回持ち回りで、この地方の4都市、トロワ、バール=シュル=オーブ、ラニー、プロヴァンを循環しながら開かれた――1月はラニー、3月はバール=シュル=オーブ、5月北部プロヴァン、7月はトロワでの「夏の市」、9月は南部プロヴァン、11月はトロワでの「冬の市」という順だった。市の循環が季節の移ろいのリズムを刻んでいた。
市の取引きには域外諸都市出身の遍歴商人だけではなく、地元の小売商や近郷近在の行商人も多数参加していたという。市場広場では織物や皮革の取引きに続いて、香辛料や油などの秤売りがおこなわれ、さらに家畜、刃物、日用雑貨類など多様な商品が市を行きかったという。近隣の一般住民も日用品の購入に訪れたほか、大規模な行事で祭事的な側面もあって、旅の大道芸人、見世物師、売春婦、物乞いなどもやって来て、殷賑を極めたようだ。
取引きが終わると決済がおこなわれ――多額の取引きをおこなうイタリア商人たちはさまざまな信用取引決済を持ち込んだが――、一般的には決済にともなう域外貨幣の両替、清算がおこなわれて、1回の大市が終わるというような流れだった。プロヴァンの貨幣は取引きの基準貨幣として用いられたので、造幣権を握るシャンパーニュ伯と造幣業務を独占した商人たちは、大きな利益を得ることになった。市が終わると、参集した遠距離遍歴商人たちのなかには次の開催都市に移動する者もあれば、仕入れの旅に出るものもあり、故郷に引き上げる者もいた。
ところが1274年、ジェーノヴァのガレー船が沿岸航路をたどってネーデルラントに姿を見せ、77年にはジェーノヴァの門閥商人、スピノーラ家がフランドゥルのズウィン湾に到達し、さらに対岸のイングランドまで回航するようになった。海運航路による輸送能力には、陸上交通はまったく太刀打ちできなくなった。ドイツ内陸地方のライン河やドーナウ沿いの諸都市も成長し始め、ヨーロッパ遠距離貿易における内陸交易路の機能は構造転換し始めた。しかも1314年、シャンパーニュ伯であったルイ10世がフランス王に即位し、この地は王領地となった頃から、王室財政の逼迫によって税金が増徴されるようになった。
こうして、シャンパーニュ地方諸都市の大市開催地としての地位が脅かされる事態が重なることになった。14世紀にはシャンパーニュの大市は衰滅していった。
それにしても、フランドゥルはヨーロッパ貿易の重力のなかで際立った中心だった。ブローデルによれば、13世紀初頭には、ブリュージュはイープルなどともに、フランドゥル地方の大市巡回路の一環をなし、多くの域外商人を引き寄せていた。貿易路はイングランドおよびスコットランドにおよんだ。ブリュージュはこの両地域から毛織物の原料の羊毛を入手した。ブリュージュがイングランドとのあいだで培った関係は、ノルマンディ、ブルターニュ、ギュイエンヌなど、イングランド王プランタジュネ家が西フランス地方に領有していた地方との交易関係・分業システムの形成にも役立った。ブリュージュには早い時期からノルマンディの小麦やボルドーのぶどう酒、ラ・ロシェルの塩などが輸入されていた〔cf. Braudel〕。
こうして、低地地方を中心に対岸のイングランドやライン地方、ノルマンディ、ブルターニュ、ギュイエンヌ、イベリア半島を結ぶ貿易網が形成されていた。
他方、プロヴァンス、ドーフィネ、ラングドックは、早くから地中海貿易圏に結びついていた。12世紀初頭から、カタルーニャのバルセローナ伯ラモン・ベレンゲール3世は、ピレネーを越えてプロヴァンスやラングドックに影響力を拡大し、西フランク王国における有力君侯の1人として南フランスの領主層や諸都市を統制した。バルセローナ商人も地中海、ラングドック、プロヴァンスに浸透し、おりしもバルセローナ伯とバルセローナがサルデーニャとシチリアを領有したため、交易網は地中海を横断し大西洋岸から北イタリア、バルカン半島までおよんだ。
やがて、カタルーニャはアラゴン王国と連合して、ピレネー山脈の両側の領主層や諸都市を統制するようになった。これと競うように、地中海東部でヴェネツィアに優位を奪われたジェーノヴァ商人たちが、ラングドック、プロヴァンス、さらにイベリア半島の港湾、諸都市に交易拠点を築いていった。
12世紀には、パリのカペー王朝の権力はパリとイール・ドゥ・フランス地方に収縮している一方で、フランスの大西洋側には、低地地方を中心に組織された交易ネットワークやイングランド王の影響力が拡大しつつあり、地中海側ではカタルーニャの君侯やバルセローナ商人、北イタリア商人の影響力が浸透していた。
だが、13世紀初頭にはカペー王権の膨張が始まり、おりしも異端討伐の名目でローマ教皇がアルヴィジョワ十字軍運動を呼びかけ、この運動をつうじてカペー王権の南部への拡張を支援した。そのため、バルセローナ伯のフランス南部への支配権は衰弱していった。だが南フランスは、その後も長らくフランス王権には疎遠で地中海貿易圏の力になびき続けることになった。南フランスではいくつかの王権直轄都市とその周囲の王領地が大海の孤島のように周囲か点在しているだけだった。
このような文脈において、無力な王権を無視して軍事的・政治的自立性を求める諸侯の分立割拠という状況をさておいても、フランス王国の諸地方は外部の貿易圏に引き込まれていて、それゆえまた、王権やパリなどの域内有力諸都市の商人よりも強く域外の権力の影響を受けていた。つまりは、地中海貿易圏、ネーデルラント=バルト海貿易圏、ドイツ=ラインラント諸都市の勢力圏にそれとなく分裂していたともいえる。この傾向は16世紀までずっと背景で通奏低音を奏で続けていて、王権の弱体化や紛争が起こるたびに混乱を増幅した。
それは、当時の政治的・軍事的状況やコミュニケーション技術、輸送技術から見て、のちにフランス王国に統合された地理的空間はとほうもなく広大で、多様性に富んでいたということを意味する。数世紀におよぶ諸都市の成長と王権の支配ないし権威の浸透は、このような文脈において進展した。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成