第6章 フランスの王権と国家形成
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このような国家構造の再編成には、支配階級のなかでの独特の勢力再配置がともなっていた。中木康夫によれば、高等法院などの最高法院に結集した古いタイプの土地所有階級(土地経営に重点を置いた富裕階級)に取って代わった特権的上層商人(外国貿易に重点を置いた有力商人)が王権の政策運営の中核となり、輸出貿易の保護育成という利害に政策上の最優先順位を与えたという。農業生産および農民層の保護も、特権都市や工業部門に安価な穀物を豊富に供給するために進められた〔cf. 中木〕。だが、王国域内での製品流通や穀物流通を妨げていた多数の地方関税圏への分断状況は、容易に克服されなかった。
このような権力構造における階級配置は、コルベール期の重商主義的政策に反映されていた。すなわち、商業資本の蓄積と権力増大のための政策体系を構築し運用したのだ。
世界貿易で優位に立つネーデルラントやイングランドに追いつこうとして、コルベール期の王権は、国民的規模での生産と流通の統制・介入システムをつくりあげていった。外国貿易の王室独占(世界貿易実務の特権商人への委託)と貿易の保護、輸出産業の育成(織物工業、金属工業、造船業などの成長)のための統制と保護が、こうした重商主義的政策の内容だった。その中軸をなすのは産業規制 régélmentation industriele の体系だった。
この産業規制の体系は、フランスの世界貿易を掌握する《王権=商業資本》ブロックの支配のもとに多くの産業を統合することを目的としていた。そのために、1660年代中頃からいくつもの王令が出され、とりわけて69年の産業一般規制と73年のギルド王令はそれらの集約的表現だとされる。これらの法令は、国民的規模で製造業と商業についてギルド制をつうじて王権の直轄統制のもとに規制し、特権的な商業資本の支配のもとに組み入れようとしていた。そして、有力貿易商人・金融商人を王室財政組織の周囲に結集させ特権を付与して王立マニュファクチュールを設立し、輸出製造業を組織化していった。
もちろん、これらの政策は王室財政を支出していく方法ではなく、こうした商業・産業を組織する商人団体に賦課金上納の見返りとして特許状(特権)を付与し、仮借ない利潤追求をおおっぴらに認めるという方法だった。産業育成とは、王室と結びついた商人団体による産業支配を強化することによって達成されるべき目標であり、権力体系の拡大を意味していた。
このような過剰なまでの国家的統制は、コルベールたちのそれなりに正確な世界認識にもとづいていた。つまり、国家としてのフランスの地位を上昇させるためには、これまで以上にフランスでの権力集中と国民的統合を進め、アムステルダムやロンドンという域外の世界都市を中軸とした世界貿易・世界分業のヒエラルヒーにおける従属的地位からフランスの諸都市・諸地方・諸産業を離脱させ、パリを頂点とする経済的凝集を政治的に組織しなければならないという認識だった。それは、当時のヨーロッパ世界経済の力関係を反映していた。
王権とパリの商業資本の同盟は、産業育成=産業統制をつうじてルーアン、アミアン、リヨンなどの諸都市の製造業を支配しようとしていた。王権による保護体制をつうじて、ルーアンやアミアンの毛織物産業はネーデルラント資本の輸出攻勢を少しずつ押しのけて成長していった。リヨンの絹織物産業は品質と生産量を高め、北イタリアからの輸入を抑えて、有力な輸出工業製品になった。
この時期のフランス王権による産業保護育成では、総じて高級品、奢侈品の生産体制を国内に移植育成することに重点が置かれていた。ゴブラン綴れ錦織りの王立工房をパリに設立したほか、ヴェネツィアン・グラスの製造職人をイタリアから招聘し、高級毛織物の職人をフランドゥルから呼び寄せ、王立工房を立ち上げた。
このような産業保護育成の政策の背景には、域外との比較における「王国の豊かさ」の尺度を外国貿易によって獲得した貴金属や貨幣の量に求めるという「重商主義」の思想があった。そうなると、付加価値の大きい高級製品の製造を域内でおこない、輸出することを理想とすることになる。そして、フランス王と貴族は、その権威を誇示するために王宮や邸宅、そして自分たちの服装を奢侈品で飾り立てていたから、貴金属貨幣の域内備蓄のためには、奢侈品の代価を外国商人に支払うよりも域内商人に支払うことを好むということになる。
こうした政策には、構造的選別 structural selectivity の論理がはたらくことになった。王権が戦略的に重要な産業と位置づけた製造業とそのほかの製造業とのあいだに税制や価格政策における扱いの不平等と格差がともなっていた。パリなどの大都市では、治安秩序や産業政策、価格政策、ギルド賃金政策などの公共政策については、保護産業に有利な取引き価格の統制がおこなわれていた。つまり「不平等交換」が系統的に組織化されたわけで、戦略的に重要な部門に向けてそのほかの部門からの剰余価値の移転集積が政治権力によって組織化されていたのだ。
ところが、とはいうものの、産業の保護育成は当時の権力構造の発現であったから、支配的な政治思想が客観的な経済状況から乖離し、産業成長を妨げることもあった。1685年の――宗教的寛容を受け入れた――ナント王令の廃止によって、20万人のユグノーが国外に移住した。移住者の多くは、商工業の担い手だった。しかも移住先は、フランスの競争相手であるイングランドやネーデルラントであって、しかも彼らは相当の資産と職能知識や生産技術を携えて移住したから、これらの競争相手の経済的力量をいくぶんなりとも強化することになった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成