第6章 フランスの王権と国家形成
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ところで、この一連の戦争がおこなわれた14世紀から15世紀までの期間は、ヨーロッパ全体の秩序の危機と再編の時代でもあった。14世紀中葉には黒死病が蔓延し、多くの人命を奪った。そののちも周期的に疫病禍がヨーロッパを席巻した。その結果、ことに農民人口の減少は所領支配の方法に変革を迫ることになった。商品貨幣経済にいっそう深く取り込まれた所領経営をめぐって、すなわち剰余生産物の取り分や農地の保有権などをめぐって農民反乱が続発した。こうした一連の危機は、偶然の連鎖の結果として、はからずもフランス王権に有利にはたらいたようだ。
このように百年戦争をめぐる環境条件にはさまざまなものがある。ここでは、ヨーロッパの軍事革命と呼ばれる軍事技術や戦法、兵站管理手法の構造転換との関連を考察する。軍事革命の背後には、商工業の著しい発達、いくつもの貿易圏が融合してヨーロッパ世界市場が形成される過程が横たわっていた。
イングランド王派は、はじめのうちイングランドから持ち込んだ長弓隊の活用で、フランス王および貴族の軍事力には打撃を与えることができたが、その代わりに今度は、所領経営の危機に見舞われ、諸地方で反乱を起こした農民民衆と対峙しなければならなくなり、それゆえまた広範な民衆の抵抗――ジャンヌ・ダルクが典型――に手を焼くことになったからである。皮肉なことに、プランタジュネ家は領地獲得とともに、フランス諸地方での所領支配の危機・所領経営の危機まで抱え込んでしまったわけだ。所領経営の構造転換については、このあとで分析する。
結果として、イングランド王軍の撃退において民衆抵抗が大きな役割を果たすことになった。ただし、民衆は各地で身近なローカルな文脈において抵抗したのであって、フランスとしての国民的意識をもって抵抗したわけではさらさらなかった。
これに対して、封建貴族・騎士の軍事力は大した成果を示さなかった。というよりも弱点をさらした。そして、フランス王軍の戦闘にさいしては傭兵が軍隊の主力をなし、重装騎士よりも砲兵と歩兵団の威力が圧倒的に優越するようになっていた。これらのことは、貴族領主・騎士の軍事的権威と名誉を著しく失墜させることになった。
イングランド王権との戦争は、フランスで君侯・領主たちの軍事機構や行財政構造の危機と転換が進展するさなかにおこなわれたのだ。あるいは戦争と複合的危機が軍事と行財政の転換を促したのかもしれない。
フランスでは、土地の授与と引き換えに騎士としての軍役奉仕を果たすという封建契約にもとづく軍制は、すでに13世紀末までにかなり衰退し、14~15世紀には貨幣経済の浸透を背景として、俸給契約によって軍役を提供する傭兵団から王権の軍隊が構成されるようになった。有力領主は、騎士や歩兵――フランス人のほかにもネーデルラント人やドイツ人、イングランド人などが混在していた――を金銭で雇って統率・指揮し、報奨金と引き換えに王に軍役を提供するようになった。
軍事技術と軍事組織の変動を見てみよう。
初期局面では、イングランド王派の戦術は、訓練された農民出身の歩兵射手が操作する長弓の攻撃によって敵戦線を切り崩すというもので、これによって重装騎士の集団を彼らが突進攻撃に入る前に距離を置いて撃破した。イングランド王軍では、騎士は長弓隊の援護の役割を与えられた。攻撃の主力から補助に格下げされたのだ。戦術的には、独立の戦闘単位として行動する騎士の役割は掘り崩され、より大規模な作戦単位の指揮に服さざるをえなくしていた。
軍隊の編成、軍事力の構造が変化したのだ。この変化は戦役を途方もなく金のかかるものにし、領主層や君侯たちに家政・財政基盤の組み換えを迫ることになった。
プランタジュネ=ランカスター王権にしても、いくら小規模な局地戦とはいえそれが断続するとなると、イングランドから呼び寄せた長弓隊と騎士をフランスにとどめ、転戦させるにしろ、フランスで傭兵による軍隊を組織するにしろ、途方もなく金がかかった。戦線の維持のために所領での領主の取り分は、飢餓と疫病による人口減少で農村は荒廃しかけていて、直営地の生産規模の拡大はまったく不可能だったし、農民への搾取の強化にも限度あった。
しかも、イングランド議会でいまや貴族院と対等以上の地位を得た庶民院――ことに都市代表――は、王のフランスでの戦争継続に反対して課税政策に強硬に反対していた。結局、イングランド王派はフランスで獲得した領地の農民の負担を増やそうとしたのだが、それは広範な農民民衆の抵抗や反乱を引き起こすことになった。プランタジュネ派も含めたフランスの君侯・貴族たちの所領経営は危機に陥り、戦闘能力は大きく衰退した。
結局のところ、イングランド王派の軍をブリテン島に追い返したのは、フランス王側の軍隊のなかでは地位の低い砲兵――そして砲兵隊を護衛した槍兵隊――であった。砲兵の出現は火器の発達を背景としていた。
ヨーロッパ大陸、ことに地中海(イベリア)地域の戦争では、試行錯誤をつうじてカタパルトで焼夷弾を発射する方法から変化が生じ、15世紀までに大砲と小銃(火縄銃)が開発されていた。15世紀のフランス王軍では、イタリア戦線を経由してこの軍事技術が導入され、重装騎兵と砲兵が統合された。砲撃によってイングランド王軍の弓隊の隊列を崩し、次いで敵側の混乱に乗じて騎士の突入・接近戦で優位を確保するという戦術が採用された〔cf. Howard〕。
また、フランス王は攻城砲兵隊を編成し、イングランド王派の領地を守る城砦を破壊した。砲兵は歩兵の槍部隊によって取り巻かれて防護された。こうして、プランタジュネ家門の軍事的支配は大陸から駆逐されていった。その結果、歩兵隊、とくに砲兵の騎士に対する優位が明らかになった。これ以降、長槍をもつ密集歩兵の隊列と砲兵隊との結合陣形が戦場の主力になっていった。この威力に対抗できるのは、やはり砲撃しかなかった。
そしてこれ以後、ヨーロッパの戦場では、また都市や所領の軍事的防衛では火砲の攻撃を防ぐことができる稜堡を備えた城郭陣地の構築が戦略的・戦術的に決定的に重要になった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成