第6章 フランスの王権と国家形成
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17世紀後半から、フランス王権は、植民地建設を担い世界貿易や製造業を支配する商人団体や企業に特許状や補助金を与え、艦隊を増強し、インド洋(マダガスカル島)や北米、カリブ海などで海外植民地を獲得していった。重商主義的政策の体系は、産業部門によっては強硬な保護関税障壁を張りめぐらし、王室にかなりの関税収入をもたらした。
他方で、王権と有力商人たちは、王国域内交通網の建設・整備を進めた。とりわけ運河建設で有名なのはミディ運河で、トゥールーズから地中海のアグドまで250キロメートルを結んだ。そのほかオルレアンとセーヌ河を結ぶ運河も開削された。さらに軍用道路や馬車街道(石畳舗装道路)の建設が目を引く。こうした輸送・物流ネットワークが域内諸地方の政治的・経済的な統合装置として機能したのは言うまでもない。
このような対外政策とインフラストラクチャー建設ならびに域内統合政策を進め、またそれによって補強された権力構造はどのようなものだったのか。
1661年のマザランの死後、ルイ14世の親政が始まり、国家諸装置の再編成と集権化が行なわれた。これまで自然発生的に形成され事案ごとにさまざまな形態・名称を与えられていた王の顧問会議を再編して、財政や司法、通商などの専門に分かれた常設国務会議 Conseil
ordinaires が組織され、そこでは基本政策よりも専門的な行政管理方針が審議されるようになった。これらの会議体を統括するために最高国務顧問会議が王権の最高機関として、王の臨席のもとに全体の基本政策を審議・決定し、各国務会議を指導した。
最高会議への参加者はコルベールのほか、大臣 ministére あるいは国務長官と呼ばれる2~3名のメンバーだけだった。とくに財政案件は、王が臨席する財務会議で審議・決定された。かつての財務長官職は廃止され、コルベールが財務総監
Controleur générale des finances として財政国務会議を主宰した。こうした中央国家装置に配置された大臣や顧問官や訴願審査官たちは、すべて富裕商人家系出身――で高等教育を受けた専門職キャリア――であったという〔cf. 中木〕。
中央政府組織の再編にともなって、地方に派遣されていた監察官は最高国務会議による直接指導を受けるようになった。監察官の数も増加し、各徴税管区に1人が長期間常駐するようになり、高等法院――いまや王令に対する異議申立権を奪われていた――はもとより、都市行政機関も直接監督するようになった。彼らには都市行政権限や産業規制、農民政策などに関する広範な経済行政権限が与えられ、その職務の遂行のために補佐官団がつけられた。このように強化された国家諸装置をつうじて財政の改革、産業規制・貿易振興の体系を創出が進められたのだ。ここに、私たちはフランスでの絶対王政の制度的確立を見ることができる。
ところで、すでに述べたように、フランスの官僚(上級の有力官吏)は、王との関係を基準として、官職保有官僚一般と親任官僚の2群に区分できた。親任官僚は、官職保有層のなかの特殊な部分だった。つまり、「王国の官僚」のなかに王に直属し王権による集権化=統合機能を担う「王権の官僚」がいたのだ。
保有官職は、本来は王権による官職販売によって生じた職分で、やがて実質的に王権から自立化した「王国の統治組織」での職務だった。それは、王国の身分=行政秩序のなかに位置づけられている独特の社会的地位・身分であって、官位には特権と収入がともなっていた。ゆえに、特殊な財産権として売買や相続の対象となった。早くからすでに官職の売買は、事実上、王室の財政収入を確保するとともに、統治機構の運営要員を確保するための制度となっていた。とくに、1604年のポーレット法によって官職の世襲が一定の年税の支払いと引き換えに認められ、官職は完全に家産化し、官職保有者層の特権団体化(独自身分化)が進んだ。王国の統治装置はすなわち特権的諸身分の集合体だった。
このような官職保有者の集合組織としては、高等法院、上座裁判所、会計法院、租税法院、バイイ、セネシャル、地方財務官と総収税官などがあった。もともとは王権による任命制だったが、任地への配置派遣が長期化するとともに地方利害を担う身分となり、王権による統制を拒みがちになっていった。だから、「王国の官職」保有者層は、その特権・権威と収益権を最終的に王権によって担保されていたが、概して王権による集権化、とりわけ課税権力の強化が彼らの既得権益を掘り崩すことには強く抵抗する傾向をもっていた。
ゆえに、集権化を進める「王権の官僚」と「王国の官僚」とはしばしば対立した。 とはいえ、官職保有者層はもともと富裕商人家門の出自で、旧来の領主貴族層に対抗する形で、彼らを押しのけて権原や利権を獲得してきたので、旧貴族層とは利害が対立的だった。
これに対して親任官僚たちは、顧問会議の書記官団や訴願審査官団のなかから選抜されて地方監察官職などの経歴を積みながら昇任昇格し王権中央の顧問官になり、国王顧問会議の強化拡充を担いながら、立法・司法活動での地方組織や高等法院などに対する自分たちの優越性を追求した。
すでに見たように、17世紀には、中核的な国家装置である国務顧問会議群は、直属=親任の上級官僚集団からなる装置に転換し、旧来の有力貴族は中枢国家装置からしだいに排除された。彼らが依拠する地方評議会――ときには高等法院――などは、「王国の統治装置」の一環を構成しているとはいえ、もはや王権の中核的装置ではなく、その多くは、支配階級のうち王権に抵抗する上層貴族が結集しがちであるがゆえに周縁化された装置になっていた。
このような文脈では、旧来の有力貴族層は宮廷への影響力や地方統治での領主特権をしだいに切り崩され、政治権力を失いつつあった。彼らはこの損失を、社会的地位の上昇、王権に担保された王国統治機構のなかで与えられる官職特権や権威、収入によって埋め合わせていた。目はしの利く有力地方貴族家門は、子弟に大学教育を施して中央機関の専門職につけ、親任官僚・宮廷貴族として出世させようとするようになった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成