第6章 フランスの王権と国家形成
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この紛争は、王権と王国秩序の再編成のあり方をめぐるものであったが、カトリックとプロテスタントいずれの教義を支持する君侯が王位につくかという点で、宗教紛争でもあった。諸侯、諸都市、諸身分、諸階級は、それぞれの利害に応じてユグノー派 Huguenots と神聖同盟派 la Sainte Ligue 、そしてヴァロワ王権を支持する王党派に与した。だが、王位をめぐる闘争は宗教のほかにも多様な位相を含んでいた。
戦争は外観上、ギュイーズ家、モンモランシー家、シャティヨン家、ブルボン家という――それぞれ広大な領地をもち、聖俗の有力貴族層と広範な恩顧関係を築き、域外と広範な関係をもつ――大君侯家門のあいだで展開された。神聖同盟の旗手ギュイーズ家はロレーヌ、ブルゴーニュなど北東部を支配し、モンモランシー=シャティヨン家系は中央部を基盤とし、ブルボン家はナヴァールと南西部を支配していた。戦乱は、それまでイタリアに投入されていた傭兵団が加わり、熾烈をきわめた〔cf. Anderson〕。
実際にはヴァロワ朝の権威没落のなかで、領主層や諸都市などの諸勢力がこれら有力君侯の保護を求めて党派を組んで争い、結果的に統治秩序が組み換えられる過程であった。紛争には世俗的利害が色濃く絡みついていて、プロテスタントとカトリック双方の内部に分裂と対立があった。
ヴァロワ家の王太子フランソワは遠征中のイタリアで1537年に急死、王位を継いだアンリ2世は59年に事故死し、ここでヴァロワ家直系は途絶えた。次王となったフランソワ2世――ギュイーズ家門系――は戴冠まもなく病死した。その頃、パリの王室宮廷はギュイーズ家と神聖同盟派諸侯によって壟断され、新王シャルル9世(在位1560-74)の政策はプロテスタントの抑圧に傾いていた。ギュイーズ派は宗教的粛清、ユグノー弾圧という名目で、地方貴族や都市の特権を奪い財産を没収した。つまり、財政危機と権威の衰退に直面した当時の宮廷は、カトリシズムというイデオロギーによる統合・集権化を進めたのだ。これに抵抗する貴族層や地方諸都市はプロテスタント派に与し、王権に対抗することになった。
宮廷を牛耳ったギュイーズ家門は、ローマ教会・教皇庁に対抗して「宗教改革(王権による教会組織の統制と再編)」を進めるイングランド王権に敵対し、スコットランドの宗教改革と王位継承紛争に介入した。
プロテスタンティズムはスイス盟約団諸州からローヌ河、ロワール河、ライン河という主要河川――つまり主要交易路――に沿ってフランス各地に広がった。1560年代には、ユグノー勢力は圧倒的に土地所有諸身分からなり、とくに貴族層と官職保有ブルジョワ、富裕商人層の約半数を占めていたという。ところが、ギュイーズ派の統制を受けて王権の宗教的寛容が失われると、プロテスタンティズムは王権からの圧迫を避けて、ドーフィネ、ラングトック、ギュイエンヌ、ポワトゥー、サントーニュ、ガスコーニュなどロワール以南の沿岸地方に広がり、比較的貧しい地方、ことに都市の職人や小商人を引きつけた〔cf. Anderson〕。南部の中小諸都市の多くは王権による統制――パリなど北東部の商業資本の支配――を拒み、イタリア・地中海などとの域外貿易を指向し、伝統的な地方的分立性を求めてユグノーに荷担した。
一方、パリをはじめとする北部の大都市では、世界貿易を指向し王権による強力な統合を求める上層商人は親ユグノーまたは宗教的寛容派だった。ところが、彼らの都市支配に反発する中小商人や職人、下層民衆の不満はカトリシズムの先鋭化(信仰の熱狂化)へと誘導された。ギュイーズ派および神聖同盟派は北部の諸都市を支配するようになっていた。王権によってこれらの諸都市に課された戦時税は倍増した。都市住民は困窮したが、民衆抗議は皮肉にもカトリシズムの過激化として現れたのだ。北部諸都市ではカトリック過激派民衆が相次いで反乱を起こした。
パリでは窮乏化した民衆の蜂起を背景に、法律家や聖職者からなるカトリック派の委員会が都市統治権力を奪取した。1588年、新王アンリ3世は、パリの支配権を握ったギュイーズ公アンリによって王宮を追われた。同年、アンリ3世はギュイーズ公の暗殺で追放に報復し、さらにブルボン家のナヴァール王アンリを王位継承者として同盟を結び、パリを包囲した。だが、翌年アンリ3世は暗殺され、ヴァロワ家は断絶した。カトリック同盟派の頭目はマイエンヌ公に代わった。結局、プロテスタント勢力の指導者、アンリ・ドゥ・ブルボンが王位を得て(フランス王としてアンリ4世)、ブルボン王朝が誕生した。
このときアンリ4世による王権の再編を支持したのがポリティク派で、宗教的には寛容政策を、政治的には王国の統合を求めていた。新王はこの派の主張にしたがって1593年にカトリックに改宗し、宗教的寛容政策での統合を進めようとした。プロテスタント派の貴族たちは続々と紛争から身を退き改宗した。
これによって、アンリ・ドゥ・ブルボンとユグノー派貴族層が、宗教上の教義によってではなく、世俗的利害によって、つまりギュイーズ派が支配する王権とその集権化政策(地方貴族の特権の切り崩し)に対抗して、カトリシズムに敵対していたことがわかる。翌年、パリでポリティク派主導の民衆蜂起が成功し、市域から神聖同盟を駆逐した。オルレアン、ディジョン、リヨンがこれに続いた。ロレーヌ、ブルターニュ、ノルマンディ、ブルゴーニュが相次いで神聖同盟から離脱した。
追いつめられた神聖同盟=マイエンヌ派による支援の要請を受け、エスパーニャ軍がフランドル、ブルターニュ、カタローニュから侵入した。というよりも、前から続いていた戦役に反ユグノーという新たな名目が付け加わり、戦線が少し拡大したのだった。エスパーニャ王権は、その帝国政策に敵対する領域国家群の一角をなすフランスを弱体化するために、そして部分的には半ば狂信的な宗教観念に突き動かされて、ユグノー派に寛容なブルボン王権を倒そうとしていた。
ユグノー戦争は生成しつつあるヨーロッパ諸国家体系――諸王権の対抗関係――のなかで展開され、ゆえに、ヨーロッパ全体を巻き込んだ宗教戦争の一環をなしていた。スコットランドでは、宗教と王位をめぐってイングランド王権とギュイーズ家が戦っていた。ネーデルラントのエスパーニャからの独立闘争、イングランドとエスパーニャの闘争、神聖ローマ帝国=ハプスブルク王朝とフランス王権との対抗も進行中だった。イングランド王権とネーデルラントはユグノーと連携して、エスパーニャ艦隊に攻撃を仕掛けていた。エスパーニャは、すでに独立したネーデルラント連邦とイングランドの攻撃によって打撃を受けていた。
しかし、フランスという地理上の国家的枠組みは維持されながら、ブルボン王権による再統合が進むことになった。
過激なカトリシズムとして都市反乱を引き起こした民衆意識は、その後も熱狂性を持続しながら、宗教色を弱めて身分的特権への憤懣――共和主義的秩序への願望――に傾斜していった。農村では戦役にともなう増税がもたらした階層分化(農民層の上下二極化)のなかで、1590年代には、リムーザン、ケルシー、ポワトゥーなど中南部の困窮農民による非宗教的な蜂起が広がった。民衆運動は、はじめのうちはブルボン王朝による統治を支持したが、しだいに王政や領主支配、都市門閥支配そのものに矛先を向けるようになっていった。
多くの地方でこうした下層民衆の反乱が支配秩序の崩壊につながりそうな状況を見て、統治諸階級は妥協しブルボン家の周囲に再結集した〔cf. Anderson〕。アンリ4世はカトリシズムを受け入れ、神聖同盟の有力貴族と同盟して農村と都市の民衆反乱を鎮圧し、王権の支配秩序を再建し始めた。
東部や北部、中部からはユグノー信者が消え、その勢力は孤立し局地化してしまった。わずかに南部だけにその勢力が維持され、そののち王権の統合力が弱まるたびに反乱・抵抗勢力の末端に加わった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成