第6章 フランスの王権と国家形成
この章の目次
このような基本的傾向をもつブルボン王権の集権化や統治組織の構築過程は、それまでの王権のそれとどれほど違っていたのだろうか。
ヴァロワ王朝も、やはり王権の膨張のために中央政府装置を組織していった。なかでも王顧問会議 Conseil du Roi には王族や名門貴族、有力な地方総督を参集させ、王国の統治をめぐる政策を諮問した。だが、顧問会議はむしろ旧来の有力貴族たちの連合が王権を制約する役割を果たしていた。だが、ブルボン王朝のアンリ4世としては、王の専制統治をめざして、有力貴族集団の影響を回避するように顧問会議を再編した。
名門貴族を退けて有力商人出身の高等法院メンバーや下級騎士を顧問官に登用して、政策全般や外交、行財政、軍事、司法のあらゆる事項を諮問した。国務顧問会議
Conseil d’Etat du Roi は大法官 Chancelier 、財務長官 Surintendent des finances と数人の国務長官
Secrétaire d’Etat を主要メンバーとして構成されていた。国務顧問会議はそのつどの問題に応じてあれこれの名称・形態をとり、王が任意に召集した高官を列席させて運営され、たとえば財政問題は財政国務会議
Conseil d’Etat des finances が扱い、重要な訴訟事件は王の最高裁判権を行使する親臨審理国務会議 Conseil d’Etat
prive et des parties が扱った〔cf. Anderson / 中木〕。
1599年に財務長官に就任したシューリは、徴税制度を改革してそれまで特権の不法な行使で税を免れていた貴族や官職保有階層に課税し、王領地と領地内での課税権を回復するとともに、外国貿易の保護や商業資本の優越と支配を貫徹する方向で産業育成を推進した。
やがて1624年に首席顧問官(財務長官)になったリシュリューの主導下で、王権の最高機関として最高顧問会議 Conseil
d’en haut が確立されていった。こうした機関による会議のための文書管理や調査、運営事務を担ったのは訴願審査官たち maître de
requêtes だった。地方への王室権威の伝達のために最高顧問会議の指揮のもとに、各地にあらためて地方監察官(地方長官) Intendents
が下僚とともに派遣され、彼らは王権による兵站管理や地方行政、徴税、裁判などの統制を進めていった〔cf. 中木〕。
地方監察官職は任期が決められた厳格な任命制で、官職売買の対象にはならなかった。地方監察官に任命される官僚の多くは訴願審査官団から選抜され、審査官を経て地方監察官となる経歴は王権の高官として昇進するためのエリートコースとなった。地方監察官の任期を限定したのは、大きな権限をもつ彼らが地方に独自の足場を築いて王権から独立するのを防ぎ、絶えず王権による統制をおよぼすためだった。そして、中央に帰任すると、顧問会議のメンバーなど高官への昇進が約束されていた。
税制についても中央集権化が見られた。16世紀から17世紀初頭までの王権の租税制度は、タイユを中心とする直接税と消費税を中心とする間接税(関税 traites 、塩税 gabelle 、物品税 aides など)に大別された。平民(主に農民)所有の土地への課税である対物タイユ taille réelles (貴族・官職保有者は免除)が支配的な地域と、所得への課税である対人タイユ taille personnelles 、(貴族・官職保有者は免除)が支配的な地域とがあった。対物タイユは王権から地方評議会に割り当てられ、課税と徴税も委ねられていた。対人タイユは、中央の財務長官が地方徴税区の財務局長 tresoriers generaux、区長 elu ――これまた買官制によって官職を得た有力者――を指揮監督して徴税されていた。
1637年以降、リシュリューの政策で地方監察官制度が恒常化すると、州の課税・徴税権限は制度上、監察官に掌握された。なかでも塩税ガベルは、消費税として販売価格に上乗せされて購入者から徴集されたので、貴族・聖職者などの免税特権を保有していた階層からも取り立てることができた。
しかし、王権の行財政機構に幻想を抱いてはならない。ことに間接税については、すでに見たように徴税請負制が敷かれ、徴税業務を買い取った諸都市の有力金融商人が牛耳っていた。直接税についても、徴税業務は収税担当官吏が担ったが、なかば私的な特権のように運用されていた。
実際の徴税は官職または徴税権を買い取った請負い人たちが担っていたのだ。彼らは徴税した金額から自分たちの取り分を差し引いて上納した。それを監督、掌握する地方監察官たちもまた、自分たちの取り分を業務にともなう俸禄や費用として差し引いて上納した。徴税業務が金銭で買い取った私的特権だったから仕方がなかった。つまり、各級の徴税役がそれぞれ上前をはねて上納する仕組みだったから、王室財政には、商人や都市住民、農民から苛酷に取り立てた税のうちの何割かしか納められなかった。
このような特権にもとづく上納実務での「しかるべき比率でのサヤ抜き」は、当時ことさら規律や倫理にもとる行為ではなく、役所の運営費用もそこから支弁される、いわば当然の俸給制度と考えられていた。各役所は王室から運営予算を割り当てられているわけではなかったからだ。ただし、王権の統治装置の整備が進むにつれて、商業会計手法によって徴税を管理する(帳簿監査)仕組みが実務官吏にも理解されるようになったので、あまりにひどいサヤ抜きは懲罰を受けるようになっていった。それにしても、ブルボン王朝の絶対王政はきわめて脆い財政的基盤の上に乗っていたといえる。
それが、やがて深刻な財政危機を招くことになり、市民革命の必然性を準備していたともいえる。
17世紀中葉からは、貨幣経済の成長にともなって、王室の財政収入に占める間接税の比率が高まっていった。1570年代には税収総額2800万リーブルの4分の1が間接税だったが、1660年代には8500万リーブルになった税収の約半分にまで増大し、17世紀末には税収1億500万リーブルの3分の2を占めるまでになったという〔cf. 中木〕。ここには、商品流通から剰余価値を引き出し王室財政に集積するメカニズムの拡大への傾向が明白に見てとれる。
ところで、間接税は所得の少ない下層民衆にとっては消費の過酷な抑圧・収奪であったが、さらに所得税は、官職を保有する上層商人や貴族などの免税特権を保有する階層を素通りして、都市の中小商人や職人層に重くのしかかった。言うまでもなく、財産税もまた、免税特権をもつ貴族=大土地所有者ではなく、農民の中小零細規模の土地財産に課されていた。巨大な土地資産には課税されなかったため、財政収入規模がきわめて限定されただけではなく、土地により効果的な経済的利用への刺激も乏しくなった。
インフレイション傾向のもとではあったが、フランス王室の財政収入は飛躍的に膨張した。しかし、ピレネー山脈沿いだけでなく、フランドゥルやフランシュ=コンテ、ブルゴーニュなどにまたがる長い辺境境界線に沿ってエスパーニャとドイツのハプスブルク王朝と戦うフランス王の軍隊は、17世紀半ばには15万の兵員を擁し、莫大な出費が必要だった。また、ドイツ三十年戦争やイタリア戦争における王国域外の同盟者――スウェーデン王権やプロテスタント諸侯――を支援するためにも資金が必要だった。不足分は借款でまかなうことになった。王室の支出の総額は、苛酷な課税によって取り立てた収入の2倍に達したという〔cf. Kennedy〕。ブルボン王権は戦線を拡大しすぎたために、きわめて脆弱な財政的基盤と貧弱な行財政官僚装置のうえに立っていた。
王権中央政府の確立と地方への統制の試みは、中途でまたもや貴族層の分裂と地方の反乱(フロンドの反乱)に出くわして一時的に停滞することが避けられなかった。これへの王権の対応については、のちに検討する。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成