第6章 フランスの王権と国家形成
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この挟撃のなかで、貴族フロンドは孤立分散していき、あれこれの地方で孤立した個別独立の闘争だけになった。しかし、エスパーニャ王国と隣接するボルドー、ギュイエンヌで――エスパーニャ王権の支援を受けながら――勢力を扶植したコンデ派は1652年、パリやイール・ドゥ・フランスでの民衆蜂起に乗じて攻め込み、王党派ブルジョワ(特権商人層)を押しのけてパリを制圧した。だが、パリ高等法院と民衆反乱派はコンデ派に敵対した。高等法院は王権に敵対する法令を撤回し、王党派ブルジョワと王権擁護の共同戦線を組み、コンデ派を駆逐して王権と市政がパリに復活した〔cf. 中木〕。
1653年にはマザランが召還され、宮廷権力と地方監察官制度を中軸とする地方行財政の再建に取り組み始めた。その後、地方監察官は域内のすべての徴税管区に常駐し、地方の兵站と行財政を強力に統括するようになった。監察官の常駐と権限強化によって、州総督は権限を奪われ、高等法院の集会は禁止され、地方評議会も監察官の統制に服した。
このあと王権は、課税制度では間接税の比重を高め、徴税請負制をつうじて財務家 financier (有力商人・金融業者)に委ねるようになった。彼らは、王権の財政機構に深く入り込み、財政の収入=徴税と資金運用を管理するようになった〔cf. Braudel / 服部・谷川編〕。
とはいえ、このような財政機構は、いわば危機のなかでの急場しのぎの対策でしかなく、財政装置の動きが私的利害を担う商人である財務家たちの利害によって左右されるようになった。王権政府の国家組織――多数の諸国家装置集合体――としての凝集性・統合性ははなはだ未熟で、財政組織はまだまだ脆弱だった。
しかし、17世紀前半から中葉におよぶ王政の混乱の背後では、フランス諸地方・諸階級の国民的統合に向けた巧妙な仕組みが創出され、動き始めていた。つまり、フランス語の政治的育成であり、言語文化の統合政策の推進であった。
すでに1539年、フランソワ1世が「王国語に関する王令」を発して、優勢なラテン語(南部の言語、オック語)に代えて、オイル語(北部の言語)を母体とする「王の言語」を公用語とする政策を提起した。そのおよそ1世紀後の1635年、リシュリューはアカデミー・フランセーズを創設した。コルベール期にアカデミーは官製=王立団体(国家装置)となった。
王立アカデミーは「アカデミー辞典」を編纂してフランス語の文法的・用例的模範を掲げ、公用文書への記載様式や行政機関での言説のやり取りを統制し、民衆の生活や伝説などをフランス語で表記しようとした〔cf. 田中 / 菊池〕。社会活動や意識・知識の形成・伝達を媒介する言語は、こうして統治の言語となり、国民的枠組みをつうじて組織化され、また国民的凝集の手段となっていくことになった。
人びとの日常生活のための公共財としての公用言語は、こうして王政による権力装置ないし支配装置の一環として、明白な政治的目的と意図を持って創出され、普及され、かくして国民的枠組みをつうずる諸階級の統合に向けて運用されることになったのだ。国民的枠組みとは、域外の諸勢力(諸国家)との対抗関係を強烈に意識した構造を備え、ヨーロッパ世界経済における競争での優位の獲得めざしたものとなった。したがって、その意味では、言語はけっして「価値中立的」ではありえず、政治的・イデオロギー的な制度として生成し、確立されるはずのものというべきだ。
アカデミー・フランセーズを頂点とする学術文化教育機関にもまた、あらゆる課程の訓練教育や意思疎通、表記にラテン語に加えてフランス王国の公用語が持ち込まれることになった。系統的に王権中央政府や高等法院などの統治装置やパリなどの有力諸都市の政庁の専門職官吏にリクルートされる人びとは、「公用フランス語」で知識を学び思考し、記憶し、意思疎通し記録することになった。
こうして、エリート層のみならず専門職中間層もまた日常生活と精神的活動、コミュニケイションを公用フランス語をつうじて組織化され秩序づけられていくことになった。これが、住民の政治的集合の特殊な形態としての《国民》を形成していくために決定的な契機となったことはいうまでもない。まさに国民とは、共通の言語文化にとって統合された住民集合なのである。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成