第6章 フランスの王権と国家形成
この章の目次
フランスにおける王権の影響力の拡張にとっては、百年戦争(イングランド王との領地争奪)は重要な意味をもっていた。
15世紀までは、イール・ドゥ・フランスを除けば、ギュイエンヌ、ガスコーニュはもとより、ブルゴーニュもアキテーヌもオクシテーヌもブルターニュも、概してそれぞれに王権からの独立を指向する君侯領をなしていた。フランドゥルは北イタリア諸都市およびバルト海・北海貿易との結びつきが強固だった。ブルターニュ、ギュイエンヌ、ガスコーニュ、アキテーヌはプランタジュネ家=イングランド王権との結びつきが強かった。ドーフィネ、ラングドック、プロヴァンスは、北イタリア諸都市が支配する地中海世界に属していた。イベリアのナヴァールやカタローニュの君侯もフランス西部や南部に勢力をおよぼし続けていた。
ことほどさようにガリアは多数の政治体や勢力圏に分裂していた。これらの地域は、あれこれの戦争や戦闘の帰趨によっては、独立の国民国家を形成したかもしれないし、別の国家の領土に属していたかもしれないのだ。
あとから見れば、このような諸地方をパリの王権のもとに統合する長期にわたる苦難に満ちた過程の始まりが、百年戦争の時期であった。そして、イングランド勢力(ランカスター家門)の撃退後に、王権は運良くブルゴーニュやアンジュー、ブルターニュを編合する。しかし、その後もフランス王権は諸地方の分裂傾向に苦悩することになる。というよりも、15~16世紀までの軍事および統治技術の水準から見れば、そして多数の君侯領主がひしめき合っているヨーロッパのなかでは、のちにフランスとして統合される地域は、単一の王権が支配するには地理的にあまりに大きすぎ、人口も多すぎた――それだけ地方的な多様性と格差があった――というべきだろう。
ひとまず、イングランド王権とパリの王権との領地をめぐる君侯間の敵対の構図と紛争の経過を追ってみよう。そのあとで、戦局の推移と軍事技術の変革との関連や所領経営の危機との関連を考察することにする。
百年戦争には「前史」がある。
13世紀はじめ、西フランクの有力君侯プランタジュネ家のジャンはイングランド王位を保有し、カペー家のフィリップ・オーギュストと大陸領地――ノルマンディ、ブルターニュ、アンジュー――の宗主権=最高封主権を争い、その大半の宗主権を失ってしまった。ただし、「フランス王から授封された領主」としての地位は保ち、北西フランスの領地そのものは保有し続けた。その後も係争は続いたが、13世紀中葉、イングランド王アンリは、領地としてのギュイエンヌ侯領をフランス王からの封土と認め、ルイ9世に家臣の礼をとるようになった。しかし、双方とも王が代われば、臣従関係は事実上白紙に戻ったため、臣従関係の再確認をめぐる駆け引きがくり返された。
1328年、カぺー王朝は断絶してフランス王位はヴァロワ家に移った。そのさい、カペー家との血縁があるプランタジュネ家はフランス王位を要求しヴァロワ家と対立した。そして、プランタジュネ王権とヴァロワ王権との王位継承紛争が領地をめぐる戦闘にいたる直接の発端は、1337年にヴァロワ家のフィリップ6世がイングランド王エドゥアール(エドワード)3世の所領アキテーヌ侯領を没収しようとしたことだった。これに対して、イングランド王エドゥアールは遠征を企てて軍を率いてノルマンディに上陸した。
アキテーヌでは、ギュイエンヌ侯であるイングランド王がフランス王権から独立の領地として支配しようとして、独自の軍事・司法・行政権力を構築していた〔cf. 朝冶〕。在地貴族の多くはイングランド王に与したらしい。この世紀をつうじて、イングランド王とフランス王との支配権争いで一進一退が続いた。
フランス西部ビスケイ湾沿岸地方はまた、イベリアの諸王権の勢力や権益がおよんでいる地帯でもあった。そこで、この地帯に艦隊を派遣するイングランド王権とカスティーリャ王権とが敵対することもあった。1372年にはラ・ロシェルの海戦でカスティーリャ艦隊がイングランド艦隊を撃破した。この時代の西フランクの勢力争いはイングランド王とフランス王との対抗だけでは説明できないということだ。
フランス西部とイングランド王権との結びつきは依然として強固だった。なかでもブルターニュ侯はイングランド王族としてリッチモンド伯を兼ねていて、やはり独自の行政・司法制度を築き、徴税官を抱え、貨幣鋳造権、教会監督権などを掌握していた。ブルターニュからポワトゥー、ギュイエンヌにいたる地域はプランタジュネ王権の勢力下に置かれ続けていた。プランタジュネ家から没収したアンジュー侯領をフランス王族が支配していたものの、アンジューは周囲をイングランド王派の勢力に取り巻かれていた。
在地の有力諸侯もまたイングランド王権に味方しながらヴァロワ王権を牽制し、王権からの独立を確保して、自らの権益を拡張しようとしていたのだ。だから、イングランド王の権威が浸透したわけではない。分立割拠しがちな諸侯の同盟としては、イングランド王を担ぐ側が優越していたというにすぎない。
他方、14世紀半ばにフランス東部ではブルゴーニュ公が広大な領地を統治していた。それらは、独自の領域国家になりかけていた。商工業が発達して豊かなネーデルラントをも統治するブルゴーニュ家は、当時ヨーロッパで最有力の君主で、その支配圏域は「ブルゴーニュ王国」とも呼ばれていた。というわけで、ヴァロワ王権は自分よりもはるかに強力な2つの君侯権力に挟撃される格好で、すこぶる旗色が悪かった。
ところで「歴史の後知恵」を用いると、プランタジュネ=ランカスター家門が封建法的(家門主義的 dynastic )な慣習にしたがって、海洋によって地理的に分断されたイングランドと西フランスとの両方で支配圏域を領域国家に統合するのは、当時の通信・運輸・軍事テクノロジーから見て、そもそも無理があった。領主層のあいだの封建法的関係と領域国家とは質的に異なるものなのだ。封建法的慣習に沿って封主権を行使するのは、領域君侯として統治することとは決定的に異なるのだ。
百年戦争の実態は散発的な局地戦――たいていは所領や領地の継承権や封主権をめぐる戦闘――の断続だったのだが、それは当時の経済状況や軍事技術と戦法、交通事情、継戦能力から見てしごく当然だった。君主の支配権は、けっして地理的な面状の――領土的統合をともなうような――軍事的優越に依拠するものではなく、象徴的な地点=要衝の制圧をもって決定されるものだった。それゆえ軍事的優越は、排他的かつ持続r的な領土支配ではなく、あくまで一時的な状況にすぎなかった。
さて、15世紀はじめにブルゴーニュ公とオルレアン公との戦争が開始されると、ブルゴーニュ公と同盟を結んだイングランド王アンリがノルマンディへの行軍=侵入をおこない、ノルマンディ、ブルターニュ、メ―ヌ、アンジュー、シャンパーニュの要衝拠点を制圧していった。軍事技術と軍の編成において遅れていたヴァロワ家とその同盟貴族の反撃は失敗を続け、ついにイングランド王ランカスター家のアンリ4世はパリ周辺も制圧し、フランス王位への請求権を明白にした。1431年、アンリ4世はパリで戴冠した。
だが、プランタジュネ派同盟の内紛――貴族勢力の分裂――とフランス側の戦術の転換、つまり砲兵を配置した歩兵部隊中心の陣地戦への転換、さらに農民反乱によって、こんどはイングランド王権側が敗退を続けることになった。1439年にはシャルル7世の軍がパリを奪回し、42年にはガスコーニュ、53年にはギュイエンヌを奪還した。イングランド王は、わずかにカレーを残してフランスでの領地をすっかり失った。
他方、この全期間をつうじて、富の集積地フランドゥルをめぐってイングランド王権とフランス王権との勢力争いが続いていた。これは、すでに見たように貿易圏と通商路の支配をめぐる戦争だった。ガスコーニュ、ポワトゥー、ブルターニュ、フランドゥルを結べば、当時急速に発展しつつあった北西ヨーロッパ通商路の一角を描くことができる。貿易圏の支配の問題は、君侯・家門のあいだの領地の相続争い、王位継承権の争奪などの文脈と絡み合ってはいるが、まちがいなく最重要な争点であった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成