第6章 フランスの王権と国家形成
この章の目次
中世晩期ヨーロッパの危機は1300年から1470年まで続いたと見られる。おりしも百年戦争は、このような危機の時代に繰り広げられていたのだ。
すでに見たように、農業の発展がそれまでの森林を中心とする生態系を組み換え、土地の肥沃度を低下させてしまったことで、農業生産は停滞し、食糧供給において都市と農村で増加した人口を支えきれなくなっていた。主穀および食糧作物の生産量の増加を前提にして成長してきた農村と都市の物質代謝はいきづまった。
食糧危機をきっかけに、都市と農村で騒擾や反乱が頻発した。飢饉によって餓死者が続出し、ことに住民が密集し衛生環境の悪い都市では、栄養不足による免疫力低下で疫病に対して非常に脆くなっていた。そして、農耕地の拡大による生態系の組み換えは、ペスト菌の媒介動物クマネズミ――これに寄生するノミによって人に感染した――を増殖させてしまった。ひとたび発生したペストは、栄養不良と疲弊で民衆が疾病に対する抵抗力を奪われていたヨーロッパを席巻した。
そののちも、ペストは波状的にやって来た。そのたびに多くの都市と農村が壊滅的打撃を受けた。ヨーロッパの人口が激減した。穀物生産は減少したけれども、人口激減によって需要はさらに縮小し、穀物価格が大幅に低落した。
結果として、生き残った農民に耕地が集まり、より粗放的に経営されるようになった。放棄された土地も多かった。市場向け生産を営む大規模所領や富裕農民ほど打撃を受けたろう。しかし、食糧を購入する零細農民や都市と農村の賃金労働者にとっては生活条件の改善になった。労働条件のよい所領や賃金の高い都市に移動する農民が増え、農村では深刻な労働力不足が生じた。
多くの領主たちは所領の荒廃と経営危機に直面することになり、たいていの場合、所領に農民を引き止めるために大きな譲歩を余儀なくされた。農民たちの領主への隷属はさらに弱められ、土地の終身保有や世襲保有などのような有利な土地保有条件を得るようになった。農民の自立的経営を認めた地代の金納化が加速した。
フランスでは、ペストに加えて貴族の紛争、傭兵団(百年戦争で各地に集散した)の掠奪によって農村の荒廃が著しかった。住民や耕作者がいなくなり放棄された多くの村落の耕地や葡萄園が森林に呑み込まれたという。
ヨーロッパでもとりわけフランスでは森林の伐採と農地開墾が進んで、13世紀中には平野部や丘陵地帯のあらかたは農耕地となり森林は消滅に近い状態になったという。腐葉土の供給源やミネラルを含む水源が枯渇していった。そして、その後は穀物の連作や輪作が繰り返されることになった。だが、これによって生態系は破壊され、土壌の肥沃度は著しく低落していったという。連作障害も頻発するようになった。
しかも換金作物の増産と直営地の拡大を目指す領主によって農民支配が強化され、農民の共同牧草地や休養林の多くも耕作地に転換された。こうして、地味(肥沃度)回復の仕組みが失われていった。
そこに寒冷化という気候変動の波が押し寄せた。
冷害や病害による不作と飢饉の連鎖が始まり、数世代にわたって深刻さを増していった。ペストが襲来する以前に、すでに都市部では餓死者や栄養不足による疾病死が大量に発生していた。ペストの猖獗や天然痘の襲来は、すでに顕在化していた人口危機に「とどめを刺した」というべきだ。人口の回復には2世紀以上かかったという。
ヨーロッパでは14世紀の危機によって、平均して全人口の3分の1、ひどい場合には半分以上が失われたという。都市部だけではなく農村でも人口が激減して、耕作者がいなくなり多くの農地が荒廃し、ふたたび森林や草原に覆われるようになった。しかし、皮肉にも、このことが農村の生態系と土壌の肥沃度の回復をもたらした。
ゆえに、疫病禍が去ったのち、所領経営と支配の危機は一段と深刻で、かつての集住型村落では、生き延びた農民たちに何とか所領圃場の耕作を手がけてもらうために、領主たちはこぞって農民に有利な定額地代の条件を提示した。また散居型村落では、定率地代や折半地代によって小作地に転換される場合が多かった。
フランスでの領地を拡大したイングランド王プランタジュネ家とバロンたちは、所領収入を増やして戦費をまかなうどころではなかったはずだ。
所領経営の危機と王室財政逼迫のなかで1396年ごろからおよそ20年間ほど戦闘の停止状態が続いた。そして、イングランド王リチャード2世とフランス王女イザボーの婚姻がおこなわれた。ところが、こうしてできたフランス王家との血縁関係が、やがてイングランド王家にフランス王位の継承権の「理由」を与えることになった。
交渉力を得た農民たちは、秩序の回復と村落の安全を求め、頑迷な諸侯や領主たちにさらなる改革を迫り、異議申し立てや反乱を起こした。1358年の北フランスにおけるジャックリー jacqurie の闘争は、このような文脈を背景に、軍隊による掠奪への抵抗をきっかけにして発生した――貧困や疲弊からの絶望的抵抗ではなかったようだ。イングランド王派は、所領経営の危機のなかで広範な農民反乱に直面して急速に統治能力を失っていった。
ヴァロワ王権は、パリをはじめとする有力諸都市の支配と都市団体との財政的同盟を背景にして、地方領主に対する農民の抵抗や自立化を支援することで、領主層の権力を切り崩そうとした。王権は農民に対する課税負担を軽減することはなかったが、農民たちが復興させた農地について地方領主の地代収取権を制限することで、それとなく農民との利害同盟を結んだようだ。
百年戦争や疫病による荒廃からの農村と所領経営の復興は、主に農民保有地の再建として進められた。領主層としても、農民負担の軽減を認めなくては、所領農地の再建ができなかった。農村労働力の激減という状況のなかで、農民たちは領主層に対して有利な交渉条件を利用して、定率生産物地代の引き下げ、地代の金納化と定額貨幣地代の引き下げを達成した。
15世紀には、中小規模の自立的な農民経営が成長した。とはいえ、それは市場の力に脅かされることを意味した。多くの所領経営の実態は、自立的に経営する農民から貨幣地代を受け取る地主的土地経営となった。ところで、地代を貨幣化した領主層にとって、中央ヨーロッパからの銀地金の流入や悪鋳で金属貨幣の価値が目減りしていく状況にあっては、かえって収入の減少を招き、所領経営はさらに追いつめられていった。
とはいえ、所領支配と経営の危機のなかで没落したのは、新たな状況、とりわけ貨幣経済の浸透に対応できなかった領主貴族層だった。一般的な傾向として、所領経営の不安定化に対応して、領主貴族層は宮廷の周囲や大権法院 Cours souverains で官職を得ることで、俸禄として領地授受するなど王権による財政的庇護を得ようとした〔cf. Wallerstein01〕。他方で、遠隔地商業や卸売りで富を蓄積したブルジョワは、王権から買い取った官職の俸禄として所領を獲得したり、都市周辺の葡萄園や放牧地に融資して没落した貴族の所領あるいは農民保有地を買収したりした。彼らは新たな地主的領主層を形成し、官職を獲得して王権を支える中央・地方の官吏となり、さらにはその子孫が大権法院の法律家となり、そのなかでもトップエリートはやがて法服貴族となっていった。
つまり、《法的形態としての領主制》は持続したが、その歴史的内容は変化していた。いずれにしろ、王権の権威は上昇し、その統治機構と宮廷には有力地方貴族や富裕商人たちが押しかけてきた。だが、王室との恩顧関係を得てひとたび特権を獲得すると、彼らは特権を利用して、王権の意向よりは自分の利害や地方的利害に沿って行動しがちだったから、王権による統制をどう行きわたらせるかが問題になった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成