第6章 フランスの王権と国家形成
この章の目次
まず12―14世紀のフランス諸都市をめぐる政治構造および法制度上の特徴を見てみよう。これについても、大きな地域的相違があった。
フランス北部・中部では、王も含めた有力君侯の権力が強かったので、中小諸都市は一般に政治的自立性に乏しく、多かれ少なかれ王権または領主権の支配統制のもとに組み敷かれていた。中部から西部――セーヌ河、ロワール河、ローヌ河に囲まれた地方――にかけて多かったのが
villes de prévôt (代官都市)で、国王または有力諸侯の代官が統治した諸都市である。そこでは、王権または諸侯権力への臣従を条件として特許状が付与され、内部自治が認められていた。
パリもこれに当てはまり、パリ代官 Prévôt des Paris のもとで商務官 Prévôt
des merchantes が商事裁判権を行使して、商品価格の規制・盗難防止・市壁の管理・市街の美化にあたった。代官職には、セーヌ河航行船舶による商取引を独占した水上商人組合の長が任命された。
北東部に多かったのが villes de commune (コミューン都市)で、11―12世紀に都市集落商人たちが推し進めたコミューン運動
mouvement communale によって独特の法的地位を得た諸都市だ。これらの諸都市はラインラントと強く結びついていた。この運動は諸都市の上層商人たちに指導されたもので、裁判・財政での地方領主の恣意を制約し、領主による粉挽小屋やパン焼窯舎などの使用強制・利用税徴収や通行税取立ての廃止を求め、貨幣・度量衡を統一することをめざした。
こうしたブルジョワ住民の圧力によって、各都市団体は、とりわけカペー朝の諸王から特許状を受けて自由特権 Franchises
が付与された。つまり、王権との協約にもとづく特許状によって、これらの都市では市長と参事会員を市民が選出し、市独自の金庫や印璽、鐘楼を備えることができ、バロン相当の法人格を与えられ、王の直属家臣として臣従した。
これらの都市は、地方領主層の権力を制約しながら王の権力・権威の伝達装置として機能するとともに、王室の財政収入を補う役割を果たした。
ところが、南部の諸都市には参事会都市 villes de consulat が多く、それらは市参事会が都市の統治権力を掌握し、対外的に強い独立性を保持していた。この地方では大規模な所領直営圃場が成立する余地がなかったので、比較的小さな権力・財政規模の領主層がほとんどだったためだ。しかも、ラングドックやプロヴァンス、ドーフィネは地中海貿易圏に属していた。そこで、王権は南部には王室直属の役人として按察使 sénéchal を――たいていは名目上の王領地や直属諸都市に――派遣した。
こうして、王権は諸都市と独特の関係を取り結び、その統治および財政装置に連結していこうとした。とはいえ、直属都市も含めた王領地と王権の統治装置は、王権から独立した有力諸侯の支配圏に取り囲まれていた。遠隔の王領地は、大海の孤島のように小さな飛び地だったのだ。しかも、フランスの諸地方は有力諸侯の勢力圏に分割され、それゆえ、陸上交易路はおびただしい数の関税圏域に分断されていた。そのうえ、一般慣習法圏は少なくとも80以上、地方慣習法圏は200~300にのぼる小さな単位に細分化されていた。王の権威を伝達する経路はなかった。
それでも、王権の統治が――少なくとも名目上――およんだ地域では、フィリップ4世治期に高等法院が上級審としての性格をもち始め、王代官が初級審、巡察使(bailli)または按察使(sénéchal)の管区法廷 bailliage / sénéchausseé
が第二審として位置づけられ始めた。
これらは、特定案件の管轄権 juridiction を領主裁判から吸収して、地方領主の裁判権を王の大権 souvéraineté に包摂統合する働きをしたと見られる。そして高等法院の権威とローマ法原理が訴訟制度に浸透し始めていた。しかも、裁判には判決の発令手数料や登録料、罰金科料などの財政的収入がともなっていた。こうして王領地という限られた地理的空間ではあるが、王権――王の家政組織――の周囲に権力装置のヒエラルヒーができあがっていくことになった。
だが、他方で有力諸侯もまた、近隣周囲の弱小領主圏の編合を進めながら、直轄領と支配圏域を領域国家としてまとめあげようとしていた。カぺ―王権の勢力圏は1伯領の域を超えて広がったが、支配圏域の広さでは、なお有力諸侯には遠くかなわなかった。
とくに西部と北西部では13世紀から14世紀前半にかけて、アンジュ―伯=プランタジュネ家としてフランクの最有力の君侯家門でもあるイングランド王とその家臣団が広大な領地を統治し、周囲の諸都市や領主層に強い影響をおよぼしていた。やがてプランタジュネ家はギュイエンヌ公位をも獲得して、フランスの大西洋岸と西部のほぼ全域を支配することになった。他方で東部では14世紀後半、ブルゴーニュ公家が神聖ローマ帝国とフランスにまたがる広大な領地を擁し、さらに食指をネーデルラント、ブラバント、ルクセンブルクに伸ばしていた。
また、諸都市を結ぶヨーロッパ遠距離貿易のネットワークがフランスを縦横に引きちぎるように形成されていった。大西洋岸に位置するノルマンディやブルターニュ、ガスコーニュの諸都市、地中海岸のプロヴァンス、ラングドックなどの諸都市は、パリの王権の支配から切り離されるように、域外の有力都市あるいは有力君侯などの影響を強く受け続けていた。
14世紀半ばからは、なによりもイングランド王位をもつプランタジュネ家門との戦乱(百年戦争)が、ヴァロワ王権の影響力と統治秩序を掘り崩していくことになった。しかも、疫病(ペストなど)の蔓延によって都市と農村の人口は激減し、王と貴族層の所領経営は深刻な危機に見舞われた。つまり、14世紀半ばには、王権の統治装置としての巡察使や按察使の地方での権力は著しく衰退することになった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成