第6章 フランスの王権と国家形成
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以上のような状況のなかで君侯・領主や王の権力構造はどのような特徴や形態を持っていたのだろうか。そして、王や有力君侯による権力拡張競争はどのように展開したのだろうか。
10世紀頃の西フランク王国には、ノルマンディ公、ブルゴーニュ公、フランドゥル伯、シャンパーニュ伯、ギュイエンヌ公、アンジュー伯、トゥールーズ伯、カタローニュ伯という有力な封建君侯が並び立っていた。王位を保有するカペー家は、もともとはパリ伯であった。カぺ―家門は、周囲の有力諸侯と比べると、パリとイール・ドゥ・フランスを領するだけの、領地的にはかなり見劣りのする1君侯でしかなかった。
他方で、11世紀から15世紀まで、ノルマンディ公家――のちにはアンジュー伯家が継承しプランタジュネ家――はイングランドの王位を保有し、さらにはギュイエンヌ公を兼ねて、西フランク王国で最有力の君侯としてフランス北部・中部・西部に広大な領地や支配地を保有していた。カペー王朝はたびたび彼らに臣従関係の確認を迫ったが、実効的支配においては大した意味をもたなかった。
してみれば、ガリアには多数の小さな王国や公国、侯国が並存していたと見た方が正しく実態を眺めることになるだろう。パリの王だけがフランスの王というわけではなかったということだ。
ところで、この時期には、それぞれ有力君侯の支配圏域のなかで地方領主の自立性はかなり高かった(バン領主レジーム)。やがて商品流通が多数の領主の支配圏を結びつけるようになると、政治体としての生き残りのためにより多くの財政収入――より広い統治圏域――が必要になったことから領主どうしの闘争と強者による弱者の統合が始まり、14世紀以降、西フランク全体で統治体制の再編成が進んでいった。財政力のある有力領主は弱小な領主を戦争に駆り立てて破滅に追い込むか、自らに臣従服属させるかして、支配圏域を拡大していく。有力諸侯は、支配圏を領域国家へとまとめあげようとするようになった。
それはまた、有力君侯といえども戦争の結果、没落して、勢力圏がふたたび小さな領主権に分解し、領主たちの生存競争と併呑合戦が始まることもあるということを意味した。とはいえ、総体として見ると、政治的・軍事的単位の規模は拡大する傾向にあった。
当然のことながら、王権はフランス王国全体におよぶ統治制度を備えておらず、それどころか直轄領でさえまともな統治組織がない場合もあった。カペー家を中心とする王国としての法観念上の(または外観上の)まとまりは、旧来からの――カローリング王朝からの慣習を引き継いだ――王会
curia regis に聖俗の有力諸侯が参集することでかろじてわずかに保たれていた。だが、この宮廷集会に列席する領主の数は減りつづけ、やがて12世紀には、ほとんど直轄領パリとイール・ドゥ・フランス――王がフランキア領地にいるときにはフランキア――の中小領主だけが参集するという状態になった。王会は、ただ単に「王室を名乗る伯」でしかないない1領主の家政機関となった。
それは、もはやカペー家の権力が旧西フランク王国版図におよぶようなものではなく、ひとりの上級領主の支配圏、すなわち伯領の家産統治 Hauswirtverwaltung の問題でしかないと諸侯から見なされたからでもあった。フランス(西フランク)王国を形づくっていた有力領主のあいだの同盟関係は崩壊状態になっていたということだ。こうした状況のなかでカペー家は、「王国の統治」にかかわずらうことなく、パリやイール・ドゥ・フランスの直轄領とその家産統治組織の形成に取り組むことになった。もちろん、パリは首都として位置づけられていたわけではない。
当然のことながら、王領地の外部の領主たちは、名目にすぎない王の軍務召集を無視した。そこで王は、王領の防衛のために可能なときには――貨幣による支払能力があるときには――いつでも直属の騎士に加えて「契約にもとづく有給の軍隊」すなわち傭兵に頼らなければならなかった。ほかの有力君侯たちにしても事情は同じだった。
傭兵隊は、主に土地も定職もない騎士たちを引き寄せたようだ。これらの騎士たちは、均分相続制によって領地が細分化され、土地経営では貴族としての生活が成り立たなくなった下級領主(の末裔)たち、あるいは長子相続制のために爵位や所領を得られなかった次男、三男たちで、重装騎士としての戦力を保持できる者たちだった。傭兵隊にはそのほか、軽装備の下級騎士(軽騎兵)、歩兵、イタリアかプロヴァンスから派遣される弩やカタパルトの専門家がいた。
早くも12世紀に貨幣経済に順応した貴族層は、王や君侯に差し出す「軍役免除税」と引き換えに軍務を免れるか、自ら傭兵を雇って軍を組織・指揮し、王や有力君侯からの報償を目当てに軍務を担うようになった。王や君侯は軍役免除税の徴収で獲得した資金を報酬にして、傭兵による軍隊を組織するということになった。
なかでもドーフィネやプロヴァンスなどの地中海沿岸地方では、貨幣経済がどこよりも早く復活したため、傭兵騎士層はきわめて独立的で、封権契約ではなく金銭的報酬を目当てに行動した〔cf. Howard〕。こうした騎士たちは、報酬しだいでただちに忠勤の主を変えたり、敵側の傭兵隊長と示し合わせて形ばかりの戦闘を演じたりすることもあったという。彼らが忠誠を誓った相手は君主ではなく、報酬=貨幣だった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成