第6章 フランスの王権と国家形成
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官職保有官僚層のうち、王権直属組織以外の統治装置(高等法院など)に官職を得た者たちの多くは、在任地での地方的利害または特権団体のメンバーとしての身分的利害に沿って行動するようになった。そのため、権威の拡張をめざす王権は、直属官僚団――彼らもまた官職保有層だった――のなかから任期を限って任命する官僚、つまり親任官僚によって中央と地方の行財政装置を組織するようになった。
地方監察官は、16世紀のヴァロワ王朝の親任査察官(軍政官 commissaire )に起源をもつといわれる。査察官は訴願審査官のなかから臨時に任期を限定して各地方に派遣され、訴訟の処理や統治に関する情報収集をおこななった。ブルボン朝のアンリ4世の治下で地方監察官と呼ばれるようになり、やがて17世紀中葉には、王権の軍政・司法・行財政政策を直接代表する統治装置として各地方に駐留ないし常駐するようになっていった〔cf. Anderson / 中木〕。
各地に派遣された監察官は、最高顧問会議および訴願審査官団の統制のもとで、地方的利害から超越して高等法院の裁判権を切り崩し、地方領主権を解体して直接税
teille の割当てを統制して、地方行財政の王権への統合を推進した。
とはいえ、王権は地方にそれ自体固有の行財政装置を組織してはいなかったので、つまり在地組織の査察と統制の機能にとどまるので、ここではアンタンダンを「地方長官」ではなく「地方監察官」と訳しておく――自己の直属組織をもたない「長官」では意味がないから。
地方監察官は、王権直属の行政官として高等法院や地方評議会、都市団体を押さえ込みながら、司法、警察、財政、軍政について統制を加えていった。
とはいえ、彼らは各地方の特権諸身分、諸団体の群れのなかにわずか数名の部下や従者を引き連れて赴任し、任地での執務に必要な下僚官吏団は、その地方での官職保有者から任命しなければならなかった。身分制(身分特権)によって組織化・序列化された行政装置のなかでは、各級の官吏個人の裁量権が大きかった。ゆえに、監察官の活動は、地方の官職保有者層の利害によって影響された。というわけで、地方貴族層や諸団体、諸都市への統制はごくゆっくりと強まっていったにすぎない。とはいえ、すでに見たとおり、この集権化には大きな限界があったということになる。
さて、16世紀以降、王権の膨張や王国統治組織の拡充によって保有官僚の数は増加し、1500年頃の1万2000人から、1600年頃には2万ないし2万5000人に倍増した。17世紀には、王権は財政収入のために多数の官職を新設して売却したため、1660年頃には4万5000人になった。官吏(官僚)の数は、1660年代末までには7~8万に達したという。17世紀後半からは、王権は財政危機への場当たり的な対策として、なおさらに官職を乱発して売り出したため、域内の統治装置に対する王権の統制の効果が低下したとも見られる。
富裕ブルジョワ層の多くは、官職の購入をつうじて統治組織に入り込み、なかにはやがて高等法院の上級官職や中央政府の王付き書記官職にまで上昇して貴族爵位を与えられる家系もあった。また、1代あるいは2、3代のあいだに、租税法院書記から高等法院の弁護士に転じ、さらに訴願審査官、地方監察官などを経て国務会議の有力顧問官に登りつめ、貴族になるという出世コースもあった。
だが、中央王権装置の上級官職に登りつめるのは、きわめてわずかな少数だった。官僚組織には幾多の職階があって、上下の権威と収入の格差は大きかった。たとえば高等法院には、有力貴族が担当する判事職や富裕市民出身の専門職としての弁護士、その下には書記、執達吏、さらにずっと下には斬首役人がいた。
17世紀には、とりわけ軍の膨張が目を引く。1624年以降の約20年間で兵員数は2万数千から25万以上に増大した。王令軍の将校職も売買の対象になっていたので、軍将校の多くに富裕商人家系のメンバーが就任した。なかでも、ことに連隊長 colonel de regiment は自ら兵員補充と装備・訓練にかかる費用を確保しなければならなかったので、富裕ブルジョワ家系出身者が連隊長職を購入する場合が多かった。
このような行政官吏団と軍の人員の増大のほとんどは官職売買によるものであって、それゆえ、官職購入代金として納められた王室歳入は1610年から1670年のあいだに10倍に増えたという。ゆえに当然のことながら、肥大化した国家機構、とくに軍を支える財源を獲得するために、王権による税の取立ての仕組みも著しく拡大した。1630年からの約50年間に、王室の税収入は3倍になり、世紀末までにさらに50%上乗せされた。それだけ、王の財政権力は拡大したことになる。
しかしながら、こうした事態は、肥大化した国家装置体系を王権が有効に統制できなければ、たちまち統治秩序の危機に直面することになったことをも意味する。しかも、乱発された多くの官職は、統治機構総体の統一性、整合性を考慮して設定されたものではなかったし、国家諸装置の内部および周囲に組織される人員が激増したことで、それだけ多数の利害分派が生まれ、権限争奪戦や駆け引きの原因が増えてしまった。
そこで、ややこしくも地方監察官と同じ名称 Intendents だが、それとは別に中央王権機構のなかに司法、軍政、財政の各部門を査察・統括する官職として監察官――司法監察官、軍政監察官、財務監察官――が設置された。とはいえ、支配的諸階級とその下の諸階級は、それぞれの権力や特権、収入などについて「フランス王国」という国民的枠組みを職務として意識し、そのなかで行動するようになった。その国民的枠組みは、王権(王室)によって統括・担保され象徴されていた。
1661年のマザランの死後、ルイ14世はコルベールを国務顧問会議の指導者としながら親政体制をつくり上げていった。王権政府は肥大化・複雑化していて、王は個人としてよりも機関として行動するようになっていたので、もはや「王の専制」という状態にはならなかったが、国家諸装置の体系の頂点に自ら直接君臨したのは間違いない。
1682年には宮廷(親政執務の中心地)をヴェルサイユに移し、フロンド反乱ののち、宮廷に集結した新たなエリート貴族層を強制的にヴェルサイユ王宮の周囲に居住させた。これらの貴族の邸宅はすべて王権によって規格化された建築様式に統一されたという。邸宅と街区の構造景観の画一化は、行動様式と思考様式の統一化をもたらしたであろう。
そして、新たなエリート貴族層の主要な所得源泉をもはや地方所領での地代収入から移して、王との直接的な恩顧関係にもとづく俸禄と年金による収入とし、旧弊な地方領主特権に代わる新たな宮廷貴族としての特権を与えることにした。彼らの権威と収入は地方領主特権の維持ではなく、王権への忠誠とその見返りの恩顧という関係によって保証されるようになった。
こうして、新たなエリート集団が王の周囲に結集し、王の専一的権威を象徴する王宮都市のなかで、王権に依存しながら政府組織のなかでの序列にはめ込まれ、もっぱら宮廷生活に関心を向けるように仕向けた。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成