第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
ところで、スウェーデンの領主連合と諸都市は、シュレスヴィヒ、ホルシュタイン、ポンメルンでのデンマーク王の戦役をことのほか苦々しく思っていた。というのも、戦費調達のために税を増徴されたうえに戦争で貿易が妨害され、特産物(主として鉄、そして銅)の大陸への輸出が邪魔されたからだ。そのうえ彼らは、デンマーク王権による集権化と中央政府の拡張に根深い不信をもっていた。
スウェーデンの王国摂政会議 Riksråd / Reichsrat は自治権の拡大、つまりデンマーク王権からの自立性を高めることを望んでいた。摂政会議は有力領主層の集会(裁判法廷)で、王が域外にいる場合または幼若な場合に執政を担い、域内に成人した王がいて宮廷政府を組織する場合には王の顧問会議となる集会だった。ついに1430年代には、摂政会議を代表とする領主連合はデンマーク軍のスウェーデンからの駆逐を狙って軍事的衝突を引き起こした。戦争にいたるほどに、カルマル盟約以来の同盟関係は崩れていたのだ。
ここでは Riksråd を「王国摂政会議」と訳す。本来は、王国顧問会議と訳すべきかもしれないのだが。
摂政会議のなかでも王から任命され、もしくは顧問官集団から選ばれた最有力の領主たちの集会が最高院
Riksmarsk ――常設の機関というよりも顧問団指導者たちの事案ごとの臨時集会であったと思われる――で、彼らが王国の政府の最高首脳だった。彼らの執政を支える基盤となり、また王位継承や王の選出・推戴を協議する領主階級全般の集会としては、領主評議会 Dag / Tag があった。
摂政=顧問会議や最高院のメンバーである有力領主たちのなかから、王の直轄領やフィンランド公領など域外要衝の軍司令官が任命されたという。彼らは平常の王国統治実務を担い、王が不適格と見なしたときには、領主連合の多数意見を理由として、王の大権を剥奪したり王位を取り上げたりすることもあった。
最高院は枢密院(後代に Riksrådet として編成)と訳される場合が多いようだが、流動的な組織でマルシュには本来、最高指揮者(司令官)という意味があるので「最高院」と訳した。あくまで仮の訳語として。
17世紀にウクセンシエーナが「統治章典」を編纂する以前には、王権の統治組織に関する定まった名称や役割・権限を規定する法規がなかったので、王や有力貴族が慣例やドイツ、フランスなどの先例をもとに必要に応じて集会や組織に任意に呼称をつけたらしい。
ともあれ、このような身分集会を中核として領主層の連合(王国としての同盟関係)が組織されることになった。領主層連合のなかでもしばしば利害の相違から派閥が形成され、派閥間の合従連衡や駆け引き、権力闘争が繰り広げられた。
上記のように、スウェーデンでは長期にわたるカルマル同盟レジームのもとで、独自の王権・王室が成立する前に貴族層の連合としての王国が存在していた。それゆえ、王権や王室の家政組織を超えた政治組織としての王国(国家)という観念や統治思想が形成されていたと考えられる。
そのような観念や思想が伝統的に貴族層に共有されていたため、個々の王の人格や政策を超えた次元の王国の統治を担う貴族としての権限意識や責務意識が形成されたものと見られる。それゆえ、のちに王が域外に遠征していても王国内に権力の空隙が生まれることもなく、貴族は王国の政治組織に忠誠を保持し、統治や軍務に精勤したのだろう。
おりしもデンマーク王国では、1438から39年にかけて王と領主集団とのあいだで統治や戦争政策をめぐって対立・紛争が生じていた。その結果、王国顧問会議 Rigsraad は、無益な戦争を継続するエーリクから王位を剥奪し、代わってエーリクの甥バイエルン公クリストファーに王位を継承させた。だが、1448年にクリストファーが没し王座に空位が生じると、スウェーデン領主評議会はデンマークからの独立を企図して最高院の顧問官カール・クヌッソン(即位後カール8世)を王位に推戴し、さらに、スウェーデン王権の優位のもとでカルマル同盟を再構築しようとした。
翌年、スウェーデンの顧問会議(摂政会議)とノルウェイの顧問会議の周囲に結集した有力領主層の連合を基礎に、カール8世はノルウェイの王位をも継承し、デンマーク王に対してカルマルの盟主としての地位を要求した。しかしデンマーク王=ホルシュタイン公の宮廷と顧問会議に結集した領主連合の権力は、スウェーデンとノルウェイの連合よりもはるかに強かった。デンマークの顧問会議は、オルデンブルク家のクリスチャン(即位後クリスチャン1世)を王位につけた。続く70年間、北欧ではカルマル同盟の主導権やノルウェイ王位をめぐって、スウェーデン王権とデンマーク王権との闘争が断続することになった。
ただし、征服活動や戦争といっても、当時は地理的にきわめて限定された範囲の戦闘(戦闘に動員できる兵員数はせいぜい数百)であって、ストックホルム城塞の占領とか象徴的な戦略拠点を攻略することで優劣勝敗が決定されるというものだった。それによって相手側域内あるいは占領地の有力な教会役員団や領主連合に臣従と忠誠を要求し、講和もたらされればよいとする程度の作戦だった。
人口希薄で都市集落がきわめて少ないうえに、気候が寒冷で、森林や沼沢・湿地が多い北欧では、大規模な騎士団・歩兵団の集合・移動はきわめて困難なうえに、兵站や補給線の維持はほとんど不可能であって、当座の食糧――最長でも2週間程度――が尽きれば戦闘の継続はすぐさま不可能になった。戦勝後に砦や要塞などの拠点を築くことも、たいていは困難だった。支配権をおよぼした地帯を確保し続ける軍事的装置を構築することもかなわなかった。ゆえに、一度「勝敗」が決しても、状況が変わればすぐに反乱や蜂起が発生することになった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成