第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
デンマーク王権は、北ドイツのプロテスタント派の支援要請に応え、1625年に皇帝派に宣戦して三十年戦争に参加していた。しかし27年、ティリー指揮下の皇帝派軍に手もなく打ち破られ、シュレスヴィヒ領とホルシュタイン領を占領され、さらにヴァレンシュタインの軍によってユーランのほぼ全域を征圧されてしまった。この年、リューベックでデンマーク王権は屈辱的な講和を受け入れた。
北ドイツで皇帝派の軍事的優位が確保されたことから、プロテスタント派はスウェーデン王権に支援を求めた。1630年、スウェーデン王軍はプロテスタント擁護の旗印を掲げてポンメルンに上陸し、内陸に侵攻した。
しかし、1630年にブランデンブルク・プロイセンに侵入し、領地を確保したことによって、スウェーデン王権は神聖ローマ帝国に所領を保有する君侯として、ドイツでの戦争(三十年戦争)にいよいよ深くはまりこむことになった。スウェーデン王は、プロテスタント派擁護を名目としてドイツ各地を転戦・収奪して回ることになった。以後の2年間で、グスターフの軍はブランデンブルクからラインラントを経てバイエルンまで進撃した。
この軍事活動は、それまでドイツ=神聖ローマ帝国版図においてハプスブルク王朝が優位にあった戦局を切り換えるきっかけとなった。1632年、リュッツェンの戦争では王グスターフが戦死したが、スウェーデン軍はヴァレンシュタインの軍を敗走させ、ドイツと北欧におけるスウェーデン王権の軍事的威勢が高まった。とはいえ、スウェーデン王軍とプロテスタント派の苦戦はそこからまだ数年続いた。
ところが、スウェーデン王権のドイツでの威勢に脅威を感じたデンマーク王は、スウェーデン軍を背後から脅かして行軍を妨害した。そのため、1643年には同じプロテスタント王権どうしの戦争になってしまった。スウェーデン王権とデンマーク王権は領地や権益をめぐって戦うことになった。デンマークの陸上軍は、皇帝派軍との戦闘で受けた大きな打撃から回復していなかったため、デンマークは艦隊が主力だった。ホルシュタイン沖では両者の海戦が展開された。スウェーデン宮廷は本土の軍をスコーネ方面に派遣してデンマーク勢力を一掃し、他方で大陸のトーシュテンソン率いる軍をユーランに侵入させた。
戦線は膠着したが、財政危機の深刻なデンマークに対してスウェーデンが優位を得る形で、1645年にブロムセブローの講和で戦争は終結した。スウェーデンはオーレズン(ズント)海峡の自由航行権を獲得するとともに、ノルウェイのイェムトランド、ハリエルダーレン、ハーランド、そしてバルト海のゴートランドを領地として取得した。こうして、スウェーデンは、ズント海峡の諸島とからデンマーク軍を駆逐して海峡へのデンマーク王権の支配を打ち砕き、バルト海一帯でのデンマークの影響力を封じ込めてしまった。
以上のことからしても、三十年戦争には「宗派闘争」以外にじつに多様な要因が絡みついたものであることがわかる。というよりも、領邦君主たちが主権領域国家の形成のために教会組織や教義を域内統合の仕組みとして統制しようとする動きにともなって、宗教=宗派問題が重要な争点として掲げられたのだ。
領邦国家群とその君侯たちにとって、至上命題は「自己保存」だった。領邦国家の外交・同盟・戦争政策では、それゆえ、自らが領邦国家として生き延びることに最優先順位が与えられた。
ところが1634年には、スウェーデン軍がネルトリンゲンで皇帝派に惨敗したうえに、翌年にはそれぞれ領邦を破壊・収奪されて疲弊したプロテスタント派諸侯の戦線離脱が相次いだ。スウェーデン王権は、35年のプラーハ講和条約によって豊かなプロイセンでの課税権は失われたため、激減した王室収入では、バルト海艦隊(90隻)の維持がやっとになってしまった。
エスパーニャ王権ハプスブルク家門と敵対していたフランス王権は、これまではプロテスタント諸侯連合(ハイルブロン同盟)諸侯・諸王権への戦費支援をおこなってきた。ところがフランス王権は、プロテスタント派同盟が後退し皇帝=エスパーニャ王権派の同盟が断然たる優位に立ったことから、宣戦布告して公然と戦線に介入することになった。
それ以後、スウェーデン王軍の大陸での戦役継続には、フランス王権からの財政支援が以前に増して不可欠なものになった。フランス王権の援助は、スウェーデン本土での王室歳入の3分の1の額にのぼったという。リシュリューはスウェーデン王軍をまるごと傭兵隊として雇い入れていたようなものだった。それでも、スウェーデン軍としては、これまでのように大規模な傭兵軍を組織・運用することは不可能になった。
こうして三十年戦争の後半は、ブライテンブルクやリュッツェンの会戦のように当時としては大規模な軍隊どうしの戦闘はもはやなくなり、ドイツの外部から財政的に支援されるか、進駐地域での略奪まがいの徴発で戦費や兵糧をまかなう軍隊どうしの小規模な散発戦になっていった。疲弊はカトリック同盟の軍にも現れていた。
やがて、戦線が広がりすぎたハプスブルク王朝軍の補給線が寸断されたうえに、オーストリア王室の財政危機が深刻化して、皇帝派は戦線を維持できなくなり、後退を続けることになった。王室は講和のタイミングを見計らおうとしたが、エスパーニャ王権の圧力でずるずる戦争を継続するしかなかった。1642年には、スウェーデン軍は内陸に進撃してウィーンに迫り、45年にはマクデブルクで勝利した。48年にはプラーハを占領した。同年のヴェストファーレン講和条約では、スウェーデンは戦勝者としての地位を得た。
戦勝者としてのスウェーデンが講和会議で要求したのは、領地としてはシュレージエンとポンメルンだった。シュレージエンでは、スウェーデン王軍は実際にその地方の主要な城砦の大半を征圧していたし、ポンメルンはすでに20年近く占領していた。そして賠償金として2千万リーヒスダラーを要求した。しかし、講和会議では「勢力均衡」の原理が強く作用した。いかなる戦勝国家にも突出して優位を得るような地位を与えない協定が結ばれた。
スウェーデンが実際に獲得したのは、上ポンメルン(リューゲン諸島とウゼドムを含む)、オーデル河右岸の下ポンメルンの縦長区域(シュテティン、ガルツ、ダム、ゴルノヴなどの諸都市を含む)で、このほかの下ポンメルン地方はホーエンツォレルン家ブランデンブルクの嫡流継承者が絶えた場合にだけ継承できるものとされた。そのほか、ヴィスマル地方、ヴィルデスハウゼンを含むブレーメン司教領、ヴェストポンメルンとブレーメンを獲得し、北ドイツのエルベ河、オーデル河、ヴェーゼル河の河口一帯を支配することになった。また、賠償金は500万ダラーを獲得した。
実際にスウェーデンが獲得・保有した領地はそれぞれ小さく、しかも分散していた。とはいえ、北部ドイツの3大河川(オーデル、エルベ、ヴェーゼル)の河口地帯を実効的に管理する戦略的地点を獲得できた。つまり、貿易路の動脈ともいうべき航路を往来する船舶に通航税を課す権益を確保できたのだ。これらの領地はもとは神聖ローマ帝国に属す所領だった。ゆえに、スウェーデン王はドイツの帝国評議会
Reichsrat にブランデンブルク公と交互に参加できる地位を獲得し、ニーダーザクセン地方の君侯領主の仲間入りすることになった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成