第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
ところが1660年、カール10世グスターフの死去後、わずか4歳の遺児カール(11世)が王位を継承した。以後1672年まで、宰相マグヌス・ドゥ・ラ・ガルディエが指導する幼年王の摂政団――顧問会議を主導する大貴族のグループ――が王権の運営にあたった。この時期も含めて15年間にわたって統治の実権を行使した摂政団=有力貴族層の内部には、深刻な対立と分裂があった。ドゥ・ラ・ガルディエは対外的な威信の高揚と軍事的冒険を指向していたが、王室財政の再建を指向するヨハン・ギュルンシェーナは平和と経済開発を求めていた。両者の熾烈な派閥闘争ののち、ガルディエ派が優位に立った。
しかし、貴族集団からなる統治機構内部では派閥紛争や駆け引きが横行し、規律の乱れと道徳的威信の低下が進んだ。そうなると当然、王権の凝集力が衰弱した。カール10世が検討していた王領地・王室収入の回復と集権化は棚上げにされたうえに、上級貴族集団による政権運営のなかで王室資産の貴族への切り売りが続いた。この時期には、所領内の農民に対する私的裁判権を地主=領主に与える所領令 grårdträtt が施行された。
それは、貴族所領にも商品貨幣経済が浸透して西ヨーロッパ市場向けに穀物を生産する直営農場の経営が出現し始めたことに対応するものと見られる。それはまた、ネーデルラント商業資本による貴族諸経営への経済的・金融的支配が深化したことを意味することになる。
ところで、1630年代から顕著になった富裕貴族の所領拡大と収入増大は、王室財政の弱体化を招いただけでなく、農民諸階層に対する抑圧と搾取の強化にも結びついていた。その頃、スウェーデンの農民は主に3つの階層に分かれていた。すなわち、王室に自営者として納税義務を負う自由保有農民
skattebönder 、王領地農民 kronobönder 、貴族所領農民 flälsebönder
だった。
自由保有農民と王領地農民は評議会に身分代表を選出することができた。2つの身分とも収入のうちから同じ程度の賦課を――自由保有農民は税として、王領地農民は地代として――王室に上納した。ところが、貴族所領農民は農奴ではなかったけれども、領主貴族の裁判権に服すだけだけなく、領主に地代を支払い、なおかつ領主直営圃場で年30日間の賦役を課されていた。この意味では、貴族所領農民の一番立場が弱かった。
農地に占める貴族所領の比率は、17世紀初頭の21%から1654年までに64%に増大したという〔cf. Wallerstein02〕。それは、立場が弱くより過酷な搾取を受ける農民の増大を意味した。王領地の貴族所領への転換、あるいは土地支配における貴族領主の権力の拡大にともなって、農民の地位の低下、搾取と抑圧の強化が進んだのだ。それには、王領地農民が立場の弱い貴族所領農民となったということだけでなく、自由保有農民の土地が貴族層の囲い込みを受けたり、債務の質抵当として商人貴族や領主貴族の所有に移ったりしたことも含まれる。
したがってこの時期には、脅威を受けた農民諸階層の抵抗運動・異議申し立ても活発化していた。評議会の農民身分集会は、王室財政の再建とともに王権による貴族特権の制限・縮小を再三要求した。こののち1680年代になっておこなわれることになる、王権による直轄地と収益権の回復政策は、このような農民層の富裕貴族層への反発に対応し、またこれを利用して弱体化した王権の強化をねらうものであった。
さて、王室収入の減少によって、スウェーデン王権――を運営する有力貴族集団――は軍備=戦費ならびに行政組織の運営・維持のために、三十年戦争の時期からこのかた、フランス王権からの援助金に深く依存し続けることになった。この援助金は、スウェーデン王権がフランス王権の利害に沿って動くことを条件として、支給された報酬だった。だが、1661年の協約で新たな内容が取り決められた。この協定は、スウェーデン王権が援助金と引き換えに、ポーランド王座が空位になる場合に王位継承の候補としてフランス王権派を支持することを求めていた。
おりしも、17世紀後半のヨーロッパでは、ルイ14世のもとで急速に強大化したフランス王権による影響力拡張のための画策とそれに対する反対運動が渦巻いていた。協定はこの権力闘争にスウェーデン王権が深く巻き込まれることを意味していたから、スウェーデン王権政府部内ではフランス支持派と反対派との派閥闘争と駆け引きが続いた。そのため王権指導部の不決断状態が続き、結局のところ、ヨーロッパの力関係の変動に応じて外交政策が日和見的に動揺することになった。
1667年にはルイ14世がネーデルラントに侵攻し、これに対してイングランドはネーデルラント連邦と同盟を結んで、フランス王権に対抗した。スウェーデンは、その両陣営から同盟を求められた。スウェーデン政府は躊躇した末に、ネーデルラントへの攻撃を開始したフランス王権への警戒が強まったため、68年に反フランス派の同盟を受け入れた。しかし、1671年にルイ14世がネーデルラント連邦の孤立化に成功し、大陸においてフランス王権が優位に立つような状況になると、スウェーデンはフランスとの同盟を回復し、ストックホルム条約(相互攻守の同盟)を取り結んだ。
実質的には、高額の報酬(フランス王権からの財政支援)と引き換えに、スウェーデン王軍1万6000人がフランス王権に仕える傭兵団となったわけだ。報酬は平時には年40万クローネ、戦時には年60万クローネだったという。こうして、強力な軍事力を備えた2つの王権が、ネーデルラントとドイツを挟んで同盟したため、翌年、フランス王軍がネーデルラントに侵攻したときに、ドイツのプロテスタント派諸侯は誰もホラントを支援しようとしなかった。
けれどもスウェーデンは、フランス王権との同盟によって、ルイ14世のネーデルラントに対する遠征を含むヨーロッパ大陸での一連の主要な戦争に、フランス王権の同盟者として、またその被庇護者(従属的パートナー)として深く巻き込まれることになった。しかも、有力貴族団による王権運営は、このように域外の地政学的状況に応じて派閥闘争と優柔不断な政策――意思決定の欠如――を招くことになり、とりわけ機敏な外交と軍事行動を取りにくくしていた。
そのため、1674年には無意味なブランデンブルク王権との闘争にはまり込んでしまい、76年にはブランデンブルク軍はスウェーデン領ポンメルンに侵入した。しかもこの年には、デンマーク王権との戦争が再開して(スコーネ戦争)、デンマーク王クリスチャン5世にルンドまで攻め込まれ、2年間にわたる凄惨な戦闘の末にようやくクリスチャンの軍をシェーランに撃退した。79年、ルイ14世の仲介でカールはデンマークと講和を結んだが、それはやはりフランス王権の権威の押し付けに近いもので、屈辱的な外交でもあった。
王権の運営にあたった上級貴族集団の指導力の弱さと政策の混乱から戦争を招き、しかも戦闘で優位を確保しても自立的な講和交渉ができないという、この一連の過程は、スウェーデン王国の統治組織の深刻な機能不全を明示していた。だが、この内政混乱と対外・軍事政策の失敗が有力貴族摂政団の威信を掘り崩して、やがて成人した王の巻き返しの土壌を用意することになった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成