第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
1523年に王位を得たグスターフは、迅速に君主制統治体制をつくりあげようとしたが、何よりもまず、域内での王権の優位の確保と王権運営のための財政収入の確保という課題に直面した。それは教会改革に結びついた。つまり、デンマーク王権との同盟を支持しがちな域内ローマ教会役員(高位聖職者)の権力を切り崩して教会組織に対する王の統制権を強化し、教会財産を王権の統制下に置くか、あるいは直接に王室財産に組み入れようとする動きである。この宗教改革は、王権の統治組織と財政構造の変革であった。
この過程は、ペリー・アンダースンによれば、1527年から44年までになしとげられたという〔cf. Anderson〕。王権運営はこれまでどおり領主貴族身分による王権の支持を基礎としていたが、いずれにせよ、この変革をつうじて、王権と貴族評議会との関係は構造的に転換していった。それにしても、16世紀前半から後半にかけて、北海周域の諸王権(イングランド、デンマーク、スウェーデン)が主として政治的および財政的理由から教会改革を進めるのは偶然だろうか。
グスターフ・ヴァーサと貴族連合は、王権の支持基盤を固めるために教会問題に取り組むことになった。王権に従順な教会組織と教会役員をつくりだそうとしたのだ。彼は1523年に教皇クレメンティウス7世に書簡を送り、王に反抗的なグスターフ・トゥローレ――王国大法官職を兼務――に代えてヨハネス・マグヌスにウプサラ大司教の地位を与えるよう懇願した。大司教の交替と引き換えに、グスターフは教皇とローマ教会に忠誠を続けることを誓ったが、教皇の返書はトゥローレの大司教への復帰を命じていた。
このとき、デンマーク王権との同盟を支持し、新たなスウェーデン王への敵対を信念とするトゥローレは、王権を支持する王国評議会によって大司教位を罷免され、逃亡していた。当時教皇庁は、僻遠の地スウェーデンの事情にきわめて疎く、デンマーク王クリチャン2世がスウェーデン王派を軍事的に打ち負かし再征服するだろうと予測して、スウェーデン王の要求を無視したらしい。その結果は、スウェーデンの統治諸階級に対する教皇庁とローマ教会の権威の喪失だった。
グスターフは、教皇がヨハネス・マグヌスのウプサラ大司教位を承認しなければ、王権はローマ教会と絶縁すると迫った。王は、スウェーデン王国での教会組織に関する事項は王権に従属するものとし、大司教をはじめとする教会役員には王への臣従を要求した。
王は域内教会のローマ教会からの分離を持続させ、王権による教会改革を進めるため、改革派(福音ルター派)のオーラウスならびにラウレンティウス・ペートゥリ兄弟とラウレンティウス・アンドレを高位の高位聖職者に登用し、ルター派福音主義の教えの普及を認めた。ペートゥリ兄弟はルター派の教育を受けていたため、王権の当座の目的にとっては便利な説教師だった。
ところが数か月後、本来ローマ教会正統派の大司教マグヌスとルター派を優遇する王とは、当然のことながら、教会運営や教義をめぐって対立することになった。マグヌスは王権によって大逆罪を誅求され、大法官職と大司教位を追われた。
1526年には王令によってカトリック派(ローマ教会正統派)の出版物は禁圧され、教会財政も王権によって統制され、ウプサラ大司教によって民衆に課されていた十分の一税の収入のうち3分の2は王室財政に取り込まれ、その借財の返済に回されてしまった。翌年にはローマ教会の司教2人が処刑された。さらに、聖界所領は王室によって没収され、王の直轄領に編合されたり、王の直属家臣団としての貴族たちに授封されたりした。これによって、王領地は5倍に――域内の農地全体の6割を占める――拡大したという。
グスターフは1527年、ヴェステルオースの王国評議会で王権による教会組織の統制と聖界資産の没収を決定し、推進した。スカンディナヴィアでの系統的な農地開墾は、辺境での布教や修行にやって来たローマ教会修道士たちによって始められ、であるがゆえに、教会や修道院の所領には、スウェーデンでは最も進んだ耕作・栽培技術が採用されていた圃場が多かった。その頃、聖界所領の圃場は、スウェーデン王国全体の農地の21%以上を占めていたという。
したがって、王と王党派の貴族たちは、スウェーデンで最も生産性の高い農耕地を王権の支配下に取り込んだのだ。
また、混乱していたダーラナの鉱山地区を王権の統制に組み入れ、ストックホルムを要塞化した。このほか、銀山の開発、鉄の延べ棒輸出の促進など、王領地でのさまざまな経済活動からの歳入・賦課金からの収入によって、増税することなく、王室財政には巨額の余剰が蓄えられた。
王は王領地の家政機関の役人の数を3倍にして王権の統治装置を拡充した。中央官僚装置の創設にさいしては、ドイツ人顧問団の構想によっていた。所領や課税権などをめぐって聖職者と経済的・財政的に張り合っていた領主貴族層は、王権による教会所領の収奪・没収に参加したが、この活動は王権の政策への荷担――領主のエイジェント化による王権統治組織への組み込み――であったため、彼らの所領は自立的な騎士封土 Lån på tjänst としての性格を失い、王の家政役人=王室直属高官への俸禄 Förläning としての性格を強めたという〔cf. Anderson〕。
つまり、王党派貴族の所領は、王権の統治組織のなかで彼らに割り当てられた特定の行政上の地位(官職)と任務と引き換えに、王室財産=王領地のなかから配分された俸碌としての意味をもつことになった。この制度は、貴族層の利害と合致した。というよりも、王と貴族層との利害共同の産物であった。これには、王と領主貴族層との関係の組み換えがともなっていた。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成