第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
スウェーデン王権に対抗するこれらの勢力は、カール11世没後、弱冠15歳のカール12世が即位したことから、王の指導力と王権の凝集力が低下するであろうと状況判断したようだ。
おりしも17世紀後半にデンマークでは、王国評議会の支持を背景に大貴族の影響力を抑えた王による「専制統治」が開始され、1699年に即位したフレデリク(フリードリッヒ)4世がスウェーデンの脅威への対抗策を練っていた。ロシアではピョ-トル1世(即位1689年)が王権を確立し、バルト海、ウクライナ方面への支配の拡大を企図していた。ポーランド王位は、1697年にザクセン公アウグストによって継承されていた。いずれも、勢力拡大のためにスウェーデン王権への攻撃の機会をねらっていた。
ついに1699年、デンマーク、ザクセン=ポーランド、ロシアが同盟してスウェーデンに反撃を開始した。ラトヴィアの分離主義派の地方貴族層がポーランドへの帰属を宣言して、反乱の烽火を上げた。デンマークはホルシュタイン・ゴットルプ公領に侵攻し、ロシア勢力はイングリア(インゲルマンラント)に侵入した。アウグストの軍はリヴォニアへの進軍を始めた。
これが第2次北方戦争 Nordkrieg Ⅱ ――大北方戦争 Großnordkrieg とも呼ばれる――の開始を告げる一連の戦闘だった。第2次北方戦争では、スウェーデン軍11万のうち半数が、東欧への侵攻に投入されることになった。カール12世は、イングランドとネーデルラント艦隊の支援を得て、最初にデンマークを打ち破った。次いで1700年には、ロシアのピョートル1世の軍をナルヴァ河畔で撃破した。カールは続いてポーランドに進撃して、激戦の末にアウグスト2世(ザクセン公)を追い払い、1704年に新たな王を擁立した。ついに1706年には、ザクセン公領に侵攻して有力な諸都市を占領し、無慈悲な軍税徴集と略奪・破壊をおこなった。
補給線を備えない戦役は、スウェーデン軍の将兵から規律と統制を奪っていったようだ。新たな統治秩序の樹立ではなく、ただ戦利品を獲得するためのスウェーデン軍の苛烈な収奪と破壊、殺戮、暴虐は在地の有力者と民衆の抵抗や反乱を呼び起こし、各地でゲリラ戦を仕かけられて、軍は悲惨な消耗を余儀なくされた。
バルト海沿岸とポーランドでの転戦ののち、カール12世は1708年、ウクライナに進撃した。スウェーデン王権はウクライナのコサックの反乱勢力と同盟を結んだ。だが、ピョートル1世は王権の拡充と軍装備の近代化を進めていたので、いち早くコサックの反乱を鎮圧して迎撃体勢を築いていた。潜伏奇襲作戦に長けたロシア部隊がスウェーデン軍レーヴェンハウプト指揮下の分遣部隊に損害を与えた。
1709年晩秋には、強力な火砲を準備したロシア軍がポルタヴァでスウェーデン軍を粉砕した。カール12世は南方に退却してトゥルコに亡命した。スウェーデン軍は東欧に派遣した兵員の7割以上を失っていた。
大陸におけるスウェーデン軍の戦線の崩壊にともない、フィンランド南部とイングリアはロシアによって征服され、ポーランドではアウグストが王復位して、領地を再征服した。スウェーデンはイングリア、リヴォニア、ヴェストポンメルン、ブレーメンなど、多くの域外領地を失ってしまった。スカンディナヴィア半島ではフィンランド北端=ラップランド=フィンマルクをデンマーク・ノルウェイ同盟軍に奪われてしまった。
これによって、スウェーデンのバルト海帝国はついに崩壊した。
1714年にカール12世が帰国したときには、もはや軍事資源も財政資源も尽き果てていた。1718年のカール12世の戦死とともに、「王の専制」――正確には大貴族層に対して王室が優越する――レジームは終わった。その後、スウェーデンでは王位継承の紛糾もあって、有力貴族層は王に対する優位を回復しながら統治体制を再編し、王国評議会(議会)に政治的決定と政策形成における最優位を与え、王と顧問会議の政権を評議会が統制するレジーム(立憲王政)を構築した。スウェーデンの短期間の「国王専制統治」はついに終焉した。
ヨーロッパ諸国家体系の「勢力平衡」の原理で相互牽制し合う仕組みが機能せずに、18世紀初頭にバルト海一帯での戦争がかくも無慈悲かつ無軌道に持続したのなぜか。
一般にこの理由の説明として、これとほぼ同じ時期に、イングランドとフランスとの対抗を軸としてすべての主要諸国家を巻き込んだエスパーニャ王位継承戦争が、西ヨーロッパで繰り広げられていたという事情がもち出される。フランスやイングランド、ネーデルラントなどの諸強国が存亡をかけて争っていて、東欧・バルト方面での戦乱の収拾に配慮する余裕がなかったというのだ。
要するに、ヨーロッパ諸国家体系総体の権力構造の変動が生じつつあったということだ。これには、ホーエンツォレルン家プロイセン王国の成立と台頭が北ドイツ=バルト海地域での地政学的環境を組み換えつつあったという事項も含まれる。
北ドイツ・バルト海方面では、結局のところ、スウェーデンを包囲する同盟が形成されていて、そのどの勢力も領地拡大を求めていたため、戦争の終結はスウェーデン王権の消耗を待つしかなかったようだ。だが、エスパーニャ継承紛争がどうにか収まって、バルト海方面での戦力平衡=和平交渉に有力諸国家の関心が向けられるまで、スウェーデンがほぼ本土を維持できたことは、好運だったというべきだろう。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成