第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
一方、王権の統治機構の改編も進んでいて、カールは王権派の下級貴族を高官に取り立て、あるいは新たに王室の家政官吏や富裕商人を貴族に叙爵して、王室から俸禄を受ける直属官僚団を増強した。そのため、16世紀末には、王権の高位官職のうち旧有力貴族層の手に残されたのは3分の1だけになっていた。
だが、王の家政機関に権力を集中したカールの専横が強まるにつれて、旧来からの上級貴族層とは敵対するようになった。王と大貴族の対立につけいって、1604年にはジークムントが少数の反対派貴族を味方につけ、カールによって簒奪された権利の回復を求めて再度乗り込んできた。しかし、有力貴族層の多数派は王に味方した。武装闘争では、カトリック王ジークムントがスウェーエデンをカトリック化するという、カール派が展開した反カトリック宣伝が功を奏して、多数派を形成したカール派が勝利した。
この年、王国評議会で各身分団体はルター派プロテスタントとしての信仰を宣誓し、カトリック信者によるスウェーデン王位の継承を排除する決定をおこなった。それ以後、カトリック教徒の顕職就任も禁止され、王への服従を拒否する者(貴族)は所領を没収され領地を追放されうるものとされた。その後、カール9世は、王位継承紛争と教会改革で敵対しあるいは掣肘を加えようとした大貴族層が拠りどころとしていた顧問会議や最高院を政策運営から遠ざけていった。
それに代わって、王権に忠実な装置としての王国評議会が召集されるようになった。また、顧問会議の下部組織として必要に応じて臨時に設置されていた事務部門が常設の組織となり、王直属の中央統治機関として大貴族層による統制から離脱していった。前王とともに域外に逃れた、王権に敵対的ないし冷淡な有力貴族を弱体化するために、カールは彼らの一部の所領を没収し、新しい貴族に王権官職の俸給として再分配した。
とはいえ、カールが反対派の大貴族の地位と権利を完全に剥奪することはできなかった。王権を支える貴族層の大半が、特定の王個人が貴族の地位と権利を完全に統制することには反対しており、貴族連合の支持なしには王権は存立できなかったからだ。
それでも、貴族層は王権の強い統制のもとに置かれるようになり、新たな軍制の構築と運営のために彼らの軍役義務は重くなった。カール9世は、これまたリンシェーピングの王国評議会で独特の軍制改革を開始したが、それは以後120年間の統治レジームと王権の行動スタイルに強く影響していくものとなった。
王権が確立をめざした軍制とは、王権の行政管区としての各州に正規軍を配置する制度で、王権国家の統治および兵站業務のために、各州は固定された員数の歩兵と騎兵を常備する責務を負うものとされた。歩兵は農民から徴募されたが、自立心に富んだスウェーデンの農民層は、固有の権利を守るためにそれまで幾度も武装闘争に立ち上がる経験を積んでいたから、訓練次第で優秀な歩兵に育成することができた。
貴族は軍の将官や士官の役割を割り当てられた。軍制の改革と運営で、貴族自体が訓練され、指導性を身につけていった。貴族層は、この頃からしだいに、家柄の古さ(名門)や王とのパーソナルな恩顧関係よりも、王権のなかで割り当てられた役割と任務によって得られる名誉や報酬に関心を向けるようになっていった。
さて、1611年にカールが死ぬと、王家と大貴族層との反目は収まった。ただちに勢力を盛り返した大貴族層は、1612年の憲章(協約)で過去のカールの統治の不当性を非難し、課税と国家統治に関する顧問会議の権力を復活させ、王位の継承の条件として、王権官僚機構への登用における現貴族の最優先と官職・俸禄の終身保有権を保証させた。カールの長男グスターフ・アドルフ(2世)は、王権の専制を避けるこうした妥協的制度を受け入れて王位を継承した。彼は粗暴な専制王政をねらうことなく、王権と貴族層との妥協と統合を追求した。
とはいえ、貴族層は統治集団として、近代化された強力な行政装置や軍に結集するようになった。彼らは個人としての王ではなく機関としての王権に結集し、忠勤するようになっていった。有力貴族の子弟は大陸の大学や専門機関で高等教育を受けて、きわめて優秀な法律家や財務家、行政官あるいは軍指揮官としての能力を養成するようになった。彼らは家門の格式だけではなく、自らの能力を実証しなければ、高官としての地位を保持できなくなった。つまり、貴族層の内部に能力主義が浸透し始めたのだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成