第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
グスターフ・ヴァーサの対外政策は、王政の土台を固める時期だったから概して自己保存的だった。だが、バルト海地域では経済的権力構造の転換と並行するように、軍事的・政治的環境も変動しようとしていた。この変動に直面して、スウェーデンは自己保存的な中立政策から離脱し、海外への膨張を選択・企図した結果、バルト海沿岸に「帝国」を形成する道を開く事態が生じた。そして、デンマークとロシア(モスクワ公国)がこの地域での当面の主要な競争相手となった。
グスターフの息子エーリク14世(在位1560-68年)、それを継いだヨーハン3世(在位1568-92年)は、いくぶん原始的な王政を受け継ぎ、結局のところ、貴族連合に依拠する王権運営を行なった。王権は貴族階級に税や賦課をほとんど課さず、彼らの特権を害することもなく、親密な関係を維持した。しかし、王による集権化の試みが貴族の利害と衝突することが、まったくなかったわけではない。
エーリクは、貴族層に対する王権の統制を強めようとした。まず、貴族の軍役奉仕義務を強化して軍を改編・増強し、また、貴族の称号に新制度を導入して貴族層の位階を明確に序列化するとともに、所領の相続の手続きを厳格化した。貴族層を王権との関係――忠誠度や貢献度、王との恩顧関係の強度など――によって序列化することで、王権の周囲に政治的凝集の核をつくり出したのだ。
対外的には、バルト海北部へのスウェーデン王権の拡張を開始した。だが、1568年にはエーリクは、有力貴族層の反目にあって廃位され、弟のヨーハン3世が王位を継承した。彼はリーヴラント(リヴォニア)紛争をめぐって同盟相手を、ロシアと対抗するポーランドに乗り換えた。
バルト海の対岸方面の状況はどうだったか。
プロイセンからリーヴラントとエストラント(エストニア)におよぶ地帯は1237年以来、ドイツ宗教騎士団(騎士修道会)領に編合されていたが、1525年以降には騎士団領が目立って解体し始めた。リトゥアニアは早くからポーランド諸侯によって征服され、そこよりも南西部の騎士団領はプロイセン公領に編合されていった。そこではルター派が優勢だったが、政治的・軍事的にはポーランド王国に臣従していた。リヴォニアとエストニアは敵対的なカトリック的ないしスラブ的世界のなかに取り残され孤立してしまい、この地域はポーランド諸侯とモスクワ大公国の差し迫った脅威を受けていた。エストニアやリヴォニアへの侵攻にさいして、ポーランドはローマカトリックの復権を、ロシアはギリシア正教の布教を旗印にしていた。
1557年には、モスクワ大公イヴァン4世の大がかりなバルト海侵略が開始された。これがリヴォニア戦争で、戦乱は以後1582年まで継続した。1558-60年には、イヴァンの軍がレヴァルに迫り、この都市は併合と破壊の危機に直面した。騎士修道会の最後の騎士団長ゴットハルト・フォン・ケトゥラーは近隣のキリスト教諸侯に救援を求めた。バルト海東部に領地の拡大をねらっていたプロテスタント派君侯たちの軍は支援に駆けつけた。すぐさま騎士団領は、デンマーク王権、スウェーデン王権、そしてプロイセン公をはじめとするポーランド諸侯によって分割されることになった。
ところで当時、名目上の版図を広げたポーランド王国では王権の衰弱が著しかった。諸侯(地方の有力領主層)は王権から自立化して領邦を形成しながら、さらに王領地の所領農地や徴税権などの王室財産を力に応じて切り取っていった。エストニアやリヴォニアに進出したポーランド勢力は征服や占領の権威づけのために「ポーランド王国」の名を掲げる場合もあったが、あるいはポーランド王も1有力君侯として軍事的冒険に参加したが、実際には近隣の――ポーランド王国を名乗る貴族同盟に属する――有力な領主諸侯による領地拡大のための好き勝手な軍事行動だった。
ついに1569年には、ヤギェヴォニク(ヤゲロニク)王家(男系相続者)は断絶し、王国は「貴族たちの共和制」となり、有力な大貴族層の連合によって王位の継承者を決定する選挙王政になってしまった。事実上の王政の解体だった。そして、すでに見たように地方領主層(諸侯)の分立化が進むという政治的・軍事的状況のもとで、ネーデルラント諸都市の商業資本の活動をつうじて北西ヨーロッパへの経済的従属が構造化していくことになった。
さて1561年、ロシア(モスクワ公国)の攻撃によってドイツ騎士団領リヴォニアに危機が切迫すると、エストニアは、グスターフからスウェーデン王位を継いだエーリクに支援を要請した。エーリクは艦隊を率いてバルト海の対岸に遠征し、その地の有力都市レヴァルを支配することになり、保護領としてレヴァルを獲得した。レヴァルの併合で、スウェーデンはエストニアにバルト海東部へと勢力拡張していく足場を得た。
しかし、東方への有力な中継拠点であるエストニアとリヴォニアには、デンマーク王権も目をつけていて、スウェーデンの保護領の近隣にこれまた領地を確保した。そのため、この一帯での勢力争いと軍事的衝突が頻発することになった。
諸王権の対抗のなかでバルト海東岸方面からの撤退は、スウェーデンおよびデンマークの双方にとって、それぞれの経済活動が依存しているバルト海貿易での地位の大幅な後退、戦略拠点の喪失を意味しかねなかったから、互いに執拗な勢力争いが続いた。スウェーデンとデンマークとの紛争は、1563年以降およそ150年間断続することになる。
エーリクが始めたデンマークとの北方7年戦争(1563-1570年)では、クラウス・ホルン提督率いるスウェーデン艦隊は、敵対的同盟を結んだデンマーク、リューベック、ノルウェイの混成艦隊を撃破した。1570年、次王ヨーハン3世はデンマークとの戦争を引き分けの講和(シュテティン条約)にもち込んだ。
一方、ロシアに対しては、1578年、ポーランド王ステファン・バトーリならびに有力諸侯と対モスクワ同盟を結び、インゲルマンラントでのロシアとの戦役で優位を獲得して、ナルヴァ一帯を征服した。さらにポーランド勢力はイワン4世の軍をプスコフまで追い返した。そのあいだにスウェーデン軍は、エストニアを征圧した。スウェーデンとポーランドとの同盟は、1582年にモスクワ大公国と休戦協定を結んだ。こうして、スウェーデンの将来の「バルト海帝国(域外勢力圏)」の基礎が据えられた。
獲得した域外領地は名目上、王領地となったが、実際にはその多くが王権の征服活動に精勤する有力貴族たちの俸給=所領として分配された。また、王室直轄領地もその軍事的防衛や統治のために王権によって派遣された貴族が経営し、大きな利益を引き出していた。収益は王室への納税と引き換えにその大半を貴族が収取した。ゆえに、総じて貴族層は王権の対外的な軍事的冒険をめざす政策を支持し続けた。
言い換えれば、貴族層は域内の王権統治機構の直属官僚として勤務すること、または域外への征服活動に指揮官として貢献することで、王領地を俸禄として分配され、収入を増大させた。これによって、貴族層は王権を中心とする統治階級として政治的に強固に結集するというメカニズムがはたらいていたのだ。その意味では、海外征服活動はスウェーデンの国家形成の決定的な要因であったということだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成