第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
鉄の生産と販売が早くからハンザ(リューベック)商人の支配に服していたことは、すでに述べた。早くも12世紀からスウェーデンの可鍛鉄
osmund の品質の高さは、ヨーロッパ全域に知られていた。それは、ハンザ=リューベック商人の統制を受けながら低価格でドイツに輸出され、そこで高価格な棒状隗の鋼鉄に加工され、ヨーロッパ中に売りさばかれた。分業体系のなかでは、付加価値性の高い部門はハンザ商業資本(ハンザ諸都市)によって独占され、彼らの金融的・技術的支配のもとで、付加価値生産性の低い素材生産というそんな役割を強制的に割り当てられていたのだ。
ところが、リューベックの勢力が目に見えて衰えてきた16世紀前半に、スウェーデン王室の権力の強化を進めるグスターフ・ヴァーサは北ドイツ都市による鉄資源支配から独立するため、域内にドイツの技術を模倣して溶鉱炉を建設した。しかしそれでも、17世紀半ばまで、鉄の全生産額のうち未鍛造の銑鉄・可鍛鉄は3分の2以上を占め続けていたという。だが、この世紀の後半になると、棒鉄隗(鋼鉄)の生産額が過半を占めるようになった〔cf. Wallerstein〕。
鉄鋼産業の育成は王室の財政支援(投資事業)によっておこなわれたが、莫大な出費を補償・償還するために「規模の経済効果」をねらうのは当然だった。鉱山業の規模拡大に向けて鉱山開発を進めるために、王権は有力な鉱脈が見込まれる遠隔地への植民を進めようとした。
しかし、スウェーデン王権には資本と技術が欠けていたから、鉱山業と冶金業の育成のためには域外商業資本の介入は避けられなかった。一方、王室の保有する鉱山は域外の商人にとっても大きな魅力だった。1580年代にはネーデルラント人ウィレム・ファン・ウェイクが王立鉱山の借地権と銅の独占権を買い取った。17世紀はじめには、ルイス・デ・ヘールが鉄鋼業の直接経営権を獲得した。いずれも、王室財政には大きな収入をもたらした。
こうして、スウェーデンでは17世紀に域外商業資本の経営権のもとで大規模な工場での製鉄業や金属化工業が成長した。そのさい、王権国家は政策として製鉄を奨励しただけでなく、鉄製品を軍備に使用する主要な顧客として製鉄業に需要を提供してもいた。金属産業の育成は王権の軍事的能力を高めるうえでも不可欠だった。
しかし、本格的な鉄鋼業の育成は、新たな工業基盤や生産工程の創出と労働力の集中をともなうがゆえに、域内の経済構造と階級関係の大がかりな組み換え過程でもあった。イマニュエル・ウォラーステインはこう指摘する。
大規模製鉄工場を経営する外国人企業家たちには「精錬工程の独占権が与えられ、安価な原料と半製品の調達も保証されていた」。それらの大規模工場の労働力の大半は、スウェーデンの辺境地帯から徴募された人びと――フィン人やスウェーデン本領の穀物の欠乏した地帯出身の農民――、そして軍役忌避者と司直からの逃亡者からなっていた。手短に言えば、外国人企業家には安価な労働力が提供されたのだ〔Wallerstein02〕。
さらにウォラーステインは、鉄鉱業と製鉄をめぐる社会的分業と階級支配の構造についてこう描いている。伝統的な技法で鉄鉱採取と銑鉄生産に携わる零細な鉄生産者たちの「生き残る余地」も残されていたが、王権によって経営権と技術独占を認められたネーデルラント商業資本の支配下では 自立的なスウェーデン企業家階級が育つ余地はなく、むしろ反対に、前貸問屋制 Verlagssystem をつうじて外国商人への債務を負い、相対的に劣悪な取引条件を余儀なくされ、地位は低下していった〔Wallerstein02〕、と。
さらに、ホラントをはじめとする域外貿易商人たちは、スウェーデン王国域内で鉱山業と製鉄業を経営する西ヨーロッパ人たちと金融的・家系的に直接結びつくだけでなく、ストックホルムやイェーテボリの輸出業者に融資し、スウェーデンの商人が今度は製鉄業者に前貸しをし、さらに製鉄業者が労働者に前貸しする〔cf. Heckscher〕という、ヨーロッパ的規模での重層的な金融的支配=従属の連鎖がスウェーデンの製鉄業を取り巻いていた。とはいえ、この産業を取り巻く権力構造の一角に有力スウェーデン商人層――王室の保護を受けて特権身分団体を形成していた――が加わるようになったことで、域内で資本蓄積が進み、経営に関する経験が蓄積されることで、将来の国民形成にとって大きな意味をもっていた。
銅産業はどうだったのか。
16世紀のヨーロッパにおける銅の主要産地はティロル、ハンガリー、テューリンゲンなどだったが、17世紀初頭までにはいずれも衰退――当時に技術では鉱脈資源は「枯渇」状態になったため――していた。運よく、銅価格の急上昇という情勢のなかでスウェーデンの銅はそれらに取って代わることになった。
域外勢力の支配からの独立をめざしたグスターフは、1617年に王立特許会社スウェーデン貿易会社の設立を認可して、銅の輸出を独占・統制しようとした。この特許会社は、3年以内に域内に銅の精錬と真鍮の製造工場を創設することを条件として、王権から銅の販売の独占権を与えられ、域外からの投資を積極的に受け入れた。スウェーデン貿易会社は、王権の保護のもとで独立の商社として、アムステルダム市場とハンブルク市場を競争させ有利な取引条件を獲得しようとした。
だが、そのとき銅の世界市場は突如崩壊して、1627年にはこの会社は破綻して解散に追い込まれた。銅の取引価格の急激な暴落が起きたのだ。これも、おそらくは――この会社をつうじてのスウェーデン王室による銅資源寡占への動きを阻止しようとする――ネーデルラント資本家たちの政治的・経済的圧力と策謀(市場操作)の結果だったらしい〔Wallerstein02〕と見られている。策謀が功を奏するほどに銅の世界市場は軟弱な状況にあったのだ。
この時期には、ヨーロッパ経済の緩やかな後退(成長速度の低下)が見え始めたところに、銅の供給量が急激に膨張したため、銅の取引価格が暴落したのだ。当時、ネーデルラント連合東インド会社(VOC)は、おそらく銅の供給におけるスウェーデンの寡占状態から脱却するために日本(徳川幕府統制下の商人)にも銅の発注をしていたらしい。小額通貨の原料となる銅――17世紀半ば近くには、銅貨は総額としては世界市場での流通量が最大となった――資源市場における価格支配力は、世界経済での優越を確保しようとするネーデルラント商業資本にとってきわめて重要だったのだ。
スウェーデンの銅鉱工業の大口投資家だったホラントのトリップ商会は、VOCの経営とも深く関係していた。スウェーデン王室の国策企業が消滅したこの年から、トリップ商会は銅鉱山を抵当に取りながら銅塊の引渡しによる返済を条件として、スウェーデンへの借款を再開した〔Wallerstein02〕。
ウォラーステインによれば、1630年頃から1660年頃までのスウェーデン経済は、ネーデルラント資本の強い影響下にあったという。強固な結びつきというよりも、経済的従属と言うべきか。鋳貨材料としての再輸出向けであろうと、ネーデルラント諸都市の銅加工業向けであろうと、スウェーデンの銅を買い取ったのは主としてアムステルダム――と通商の提携先をリューベックからロンドンとアムステルダムに乗り換えたハンブルク――の商人だった。グスターフ・アドルフの治世で主としてネーデルラント人とフランデルン人からなる域外商人団体の投資が始まり、さらに彼らはスウェーデンの鉱山業・冶金業の直接経営に乗り出すようになった。
「銅による債務償還」を条件として、ネーデルラント人による大規模な投資と融資がおこなわれたのだ。辺境での資源開発を金融的・技術的に支援するための借款(債権=債務関係)と投資によって進出先の資源を経済的に支配する巧妙な仕組みができあがった〔Wallerstein02〕。鉱物資源・金属加工業における多国籍企業は、すでにこの時期に生まれていたのだ。
ハンブルクの商人団体には、イングランド(ロンドン)の商人団体の強い影響力がおよんでいたので、スウェーデンの金属産業へのハンブルクの参加は、将来のヨーロッパ世界経済におけるヘゲモニー争奪戦を予兆する事態とも見られる――金融支配だけではなく、資本輸出による経済的支配の。
しかし、スウェーデン経済が西ヨーロッパ商業資本への全面的従属と周縁化への過程に飲み込まれなかったのは、王権国家の政治的・軍事的単位としての高度の独立性が保たれたからだった。
王権は、有力な域外商人層を特権付与や貴族叙爵によって宮廷の周囲に取り込み、国家装置の担い手とする政策を積極的に推進した。域外商人たちも、とりわけネーデルランド人はユトレヒト同盟=国家への帰属意識も非常に弱く、身分と通商特権による経済的利益が保証されればスウェーデン国民への帰化をいとわなかったという。そのため、たしかにネーデルラント商業資本への従属構造は動かなかったが、鉄・銅の貿易業と製造業の基幹的部分に王権国家による統制を何とかおよぼすことができたのだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成