第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
17世紀後半スウェーデンはヨーロッパ大陸では大きな軍事的影響力を獲得していたが、域内の王権装置と財政は貧弱なままだった。この意味でも、この王権国家は奇妙な存在だった。近隣地域により強力な国家が存在しなかったため、スウェーデン王権の無謀ともいえる強引な対外政策を阻止したり、無謀につけ入って王権の独立を脅かすような地政学的環境がなかったためだろうか。
さて、スウェーデン域内では、1632年に王位を継承したクリスティーネによって官職と爵位のばら撒きがおこなわれ、上級貴族の数は6倍に膨れ上がり、下級貴族は2倍に膨らんだ。その分だけ王権に対する貴族集団の政治的影響力が増大した。そのため、宰相ウクセンシェーナが女王の摂政団を指導した時期(1632~44年)をつうじて、顧問会議と王権政府では王に対する有力貴族層の優位が制度化されていった。新貴族のうち半数以上は、王国の外部から流入帰化した者たちだった。
しかも、この時期に王領地では地代や税の現物貢納から貨幣貢納への切り替えが推進されたが、地方の王領地で指揮した宮廷高官(貴族)やその従者たちによって王領地と収益権・徴税権の多くが――俸禄として――切り取られてしまった。
1632年には、王領地を貴族への財政的援助として分与する制度についての協約が章典化――援助に関する章典として制定――されたため、王室直轄領の保有権と収益権の多くが貴族の手に移っていった。1652年には貴族所領の面積は1611年当時のそれの2倍になって、本土王国全体の3分の2に達したという。それは、当然のことながら王室収入の大幅な減少をもたらした。
17世紀半ばから後半にかけて進展した、王領地と王室収入の有力貴族層への譲渡 avsöndring (譲与)は、国家装置の拡充と財政対策の意味があったという。軍役奉仕や行政官職としての服務と引き換えにその報酬として、贈与または売却によって、王領地の保有権・収益権や自由保有農民の土地への賦課徴収権を貴族に与えた〔cf. Wallerstein〕というわけだ。つまり、王権としては外観上、現金の支払いなしに国家装置(軍と行政機構)を拡大できたかに見えた。他方で、この時期に王権は徴税請負制を導入したが、それは言うまでもなく、富裕商人貴族や商業に手を染めた有力貴族の利殖機会を拡大した。
土地所有や土地経営ならびに課税権=財政収入という側面では、王権による集権化は進展することなく、むしろ分散化が進んだかに見える。ただし、スウェーデンでの貴族所領の拡張は、地方貴族層の王権統治からの独立という方向へは進まなかった。多くの貴族は宮廷の周囲に強固に結集し、引き続き王権を支える強固な貴族連合をつくりあげていた。彼らは王の人格に忠誠を向けたのではなく、貴族の権限や優位を保証する政治機関としての王に服属していたのだ。
要するに、王権の政策は王の個性によって一定の振幅で揺れ動くが、総体としての王国の統治装置は、個々の王の人格から自立した機構になっていたようだ。
ところが17世紀半ば以降、グスターフ・アドルフの後継者たち、クリスティ-ネ女王とカール10世グスターフの浪費で王室財政は極度に逼迫していった。財政逼迫で域外領地への軍の派遣も継続不可能になりかねず、バルト海沿岸一帯に拡張したスウェーデンの権力を掘り崩しかねない状況になっていた。女王の退位時には、王室は破産の淵に立っていた。
一般民衆の多数は、王権の域外支配=「帝国政策」を維持するために、つまり王室の収入を増やすために、都市住民や農民への課税強化によって彼らの権利と利益が圧迫されるのを恐れていた。下層民衆にとっては、近年、優位を回復した貴族層の増長(免税特権の拡大)によって、さらに民衆の収入が削り取られかねない状況にあるように見えた。ゆえに、彼らは新たな王に、諸身分の利害衝突を調停する権威者として、とりわけ貴族の専横を抑えて権力バランスを自分たちの側が有利になるように復元してくれるよう望んだ。
ところが、1654年に王位についたカール10世は、貴族層に対する王権の優位の回復を追求したが、なによりも軍事的栄光の達成をもくろんでいた。それは、すでに獲得しているバルト海一帯への王国の影響力の拡大によってはじめて実現するもので、カール10世としては、この影響力=権力のためには、また、本土域内での統合と平和の維持、そして何よりも王室収入の増大が不可欠であることも理解していた。
王室財政にとって最も差し迫った問題は、貴族によって切り削られた王領地の回復だったが、1654年の王国評議会で暫定的に修復=調整が試みられた。王は、本来、王室財産であるべき領地と収益を保有している貴族たちが毎年総額20万リーヒスダラーを税として支払うか、さもなくば、80万リーヒスダラーと見込まれる所領財産の4分の1を手放し王室に返還するよう提案した。
しかし、貴族たちは、1632年11月の「援助に関する章典」という王と貴族との協約を持ち出して、貴族への課税額を減らそうとした。貴族院は、現在の王領地の貴族への支給(つまり貴族への援助)は将来のすべての主権者が遵守すべき永遠の法=権利とみなされるべきであると主張した。つまり、王領地の分配ののちの協約成立時にあった状態より以上に有利な王領地の回復はありえないものと反駁した。
この援助章典の解釈に対して、下層諸身分は執拗に反対し、評議会は協約の再確約を停止しようとした。そのとき、王が介入した。貴族院の意向に沿って庶民院を鎮圧するためではなく、貴族院に譲歩を迫ったのだ。その提案は、次期の評議会まで特別委員会による広範な調査検討をおこなうことされ、その間、すべての階級に対して資産に比例して課税するという妥協策が提起され、この妥協案は各身分の評議会で受け入れられた。
ところで、これまでも再三述べたように、当時ヨーロッパの諸王権はいずれも恒常的に深刻な財政危機に陥っていた。財政金融に政府(公的)部門と私的部門との制度的区分はまだずっと遠い将来の話で、中央政府=王室の資金調達は、一般の商人企業や都市団体と同じ金融市場で、商人や都市との競争をつうじておこなわれていた。
ただし、ごく少数の政府は官僚=徴税装置をしだいに組織化・拡充してきて、税収という比較的安定した恒常的な収入が見込まれるようになったため、金融市場での借款が一般商人と比べてやや有利になってきてはいた。しかし、エスパーニャ王権のように何度も王室財政の破産(支払停止)に追い込まれる場合もあったから、一般に王権への融資はハイリスクの冒険的な投資事業(投機)だった。
それゆえ、金融市場での諸王権への融資条件は厳しく、高金利で償還期間の短い融資を受けるしかなかった。それに比べて、富裕な商人団体が資金調達を直接に管理するネーデルラント諸都市政府や連邦政府は、各種の銀行=金融商人との好適な連携=融合を組織化して金融市場での資金調達が容易だった。ユトレヒト同盟の長期わたる独立戦争の勝利は、まさに政府財政の資金調達能力によって達成されたものだった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成