第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
     ――辺境からの離脱の試み

この章の目次

冒頭(緒言)

1 中世北欧諸王国の黎明

ⅰ デンマーク王権の優越

ⅱ 北欧諸王国の実態

ⅲ スウェーデン王国の生成

2 デンマークの地域覇権からの離脱への道

ⅰ 王位継承紛争

ⅱ カルマル同盟

ⅲ 同盟内の利害相克と紛争

ⅳ スウェーデン独立派王権の試み

3 スウェーデン教会改革と王権統治機構

ⅰ 聖界資産の収奪と貴族層

ⅱ 王政の統治慣行の組み換え

ⅲ 教会改革と農民反乱

4 北欧・バルト海の政治的・軍事的環境

ⅰ デンマークの王位継承紛争と混乱

ⅱ デンマーク王権と教会改革

ⅲ ハンザの衰退とスウェーデン経済

5 スウェーデン王権のバルト海進出

6 域内での王権統治機構の成長

ⅰ 王位継承のゆくえと教会政策

ⅱ 集権化と貴族層の影響力

ⅲ 王政レジームの組織化

ⅳ 貴族身分制の再編

7 スウェーデン王権勃興の要因

ⅰ バルト海の地政学的事情

ⅱ 域内の人口規模と貴族層の利害

ⅲ 王と諸身分(身分評議会)

ⅳ 鉄・銅産業の役割

ⅴ 鉱工業とネーデルラント商業資本

8 軍制改革と対外的膨張

ⅰ ヨーロッパ軍事革命とスウェーデン王権

ⅱ 対外的拡張と三十年戦争

バルト海東部戦線

ドイツ戦線と対デンマーク戦争

ⅲ 戦況の転換と講和

9 「帝国政策」と財政危機

ⅰ 王室と貴族との関係

ⅱ 王室財政の危機と金融市場

ⅲ 銀行設立と金融制度

ⅳ ポーランド侵攻と第1次北方戦争

スウェーデン包囲網

「バルト海帝国」

ⅴ 大貴族層の専横と外交の混乱

10 「王の専制」と「帝国」の終焉

ⅰ 王室権力の回復政策

ⅱ 第2次北方戦争と「帝国」の終焉

奇妙ユニークな王権は絶対王政なのか◆

6 域内での王権統治機構の成長

  この時期にスウェーデン域内では、王位継承をめぐる紛糾を経て、王権の拡張――それは貴族連合との関係の再編をともなっていた――と教会改革が進んでいた。王位継承をめぐる力関係のありようが、王権の拡張と教会政策の方向を決定したのだ。王位の変遷が王権と域内統治構造をどのように左右したか見てみよう。

ⅰ 王位継承のゆくえと教会政策

  エーリクの弟ヨーハン3世は、もともとフィンランド公であったが、精神に異常をきたしたエーリクを幽閉して、1568年にスウェーデン王位を継承した。彼はすでに62年にポーランド王ジークムント2世の妹カテリーナ・ヤギェヴォニクと結婚し、男子ジークムント(ジギスムント)をもうけていた。
  ジークムントは母のもと(ポーランド)でカトリック教徒として育ち、ヤゲロニク家に男系の王位継承者が絶えたあと、1587年にポーランド王に選出された。とはいっても、事実上、ポーランドの王政は解体していたから、王国域内で最有力の君侯の1人になったにすぎない。戴冠の直後、ジークムントは貴族連合の承認を得てスウェーデン王ヨーハンと協定――親子のあいだの相続協定――を取り結び、ヨーハン没後にスウェーデン王位を父から継承する権利を確保した。

  この協定は、ジークムントが王位についた場合、それぞれの王国が固有の法と慣習を保持しながら同盟するものとしていた。スウェーデン王室は、顧問会議 Riksråd (摂政団=枢密院 Riksrådet )が進めるはずの教会政策にしたがいながら、固有の信仰(ルター派プロテスタント)を保持するべきものとされた――つまり、ジークムントはスウェーデン王室と教会のルター主義を堅持すべき義務を負うことになった。
  ジークムントがスウェーデン臣民に対する義務(王国としての独立とルター主義の堅持)から解放されるよう求めることは、教皇庁も、またジークムントが新たに組織するはずの枢密院リーヒスラーデットもできないものとされた。そして、ジークムントがポーランド王国での統治のためにスウェーデンから離れている時期には、スウェーデン王国は、プロテスタント派の指導者ゼーデマンラント公カール――グスターフ1世の子息でジークムントの叔父――を含む7人のスウェーデン人有力貴族からなる摂政団=枢密院によって統治されることになった。
  顧問会議のメンバーのうち6人は王によって選定され、残りの1人はカールによって指名された。王の不在中はいかなる新税も課されないものとされ、ポーランド宮廷からの統治は受けないものとされた。これらの条項の改変は、王とカール公、貴族、都市代表、有力農民の合意によってなされるものとされた。スウェーデン統治階級による王の統治活動に対する制約は、王権国家装置の運営が王と貴族集団との同盟を基盤として行なわれるものであって、王のパースナルな専制統治を回避する構造になっていることを示していた。

  このような仕組みによって、スウェーデン王政は、王の個性や人格から相当程度に自立した中枢国家装置によって運営管理される構造へと成長し始めたともいえる。辺境の地で、ヨーロッパで最も進んだ王権国家構想が誕生したのだ。とはいえ、王政や身分秩序を統治の核とする限り、王や、王室のそのときどきの性格によってある程度、王権の運営が動揺するのは避けがたかった。

  それはまた宗教政策上、スウェーデン域内にヨーロッパ大陸のカトリック反動が押し寄せないように予防するためだった。
  エーリク14世のもとでも、グスターフが開始した宗教改革の基本線は保持されたが、カトリック派の巻き返しも繰り返された。結局、妥協的な道ができあがり、とりわけ農村民衆の旧来通りのカトリックの儀式や慣習もまた聖典には違背しないものとされた。ヨーハン3世も、妥協を維持するため中間派の道を踏襲していた。
  1570年代には、すでにイングランドで原始的なローマ教会をモデルにして成立した、穏健な〈高教会派 High Church 〉にも似た教会組織をもって運営を行い、祈祷書を編纂していった。1577年には王国評議会で、カール公とプロテスタント強硬派の反対にもかかわらず、この新たな「折衷的な」教会組織が承認された。その後、ヨーハン3世と教皇庁との水面下の交渉によって教皇庁との妥協がはかられ、82年に王国評議会で関係修復の協定が批准された。

  ところが、ヨーハンの没後、1592年にジークムントがスウェーデンに帰還し、王位を要求し継承した。王位を獲得したジークムント(在位:1599年まで)は、王位相続協定に違背してスウェーデン教会をローマカトリックに復帰する政策を掲げたのち、ポーランドに戻った。しかし、カトリックへの復帰に反対する貴族連合の支持を受けたゼーデーマンラント公カールが、スウェーデン教会の独立(ルター派の堅持)を宣言してジークムント派の排除に乗り出した。
  翌1593年、カール公の主導でウプサラに招集された宗教会議によって新祈祷書は廃棄され、反カトリック的なルター派の教義・信仰告白が定式化された。95年には王国評議会がカールを首席顧問官=摂政とすると宣言した。もはや戦闘が不可避になった。98年、ジークムントはポーランドのカトリック派貴族を率いて遠征を企てたが、カール派の軍に敗れ、スウェーデンから逃避した。彼がスウェーデン王位に戻ることはなかった。

  1599年、カールが王位を継承(スウェーデン王としてカール9世)し、1600年にリンシェーピングの王国評議会が王位の正統性を承認・宣言した。王位についたカールは、ジークムントを支持したカトリック派貴族たちを残酷に粛清し、ルター派の支配を強化する教会改革を断行した。スウェーデンでも国民的教会組織が形成され、それは王政統治レジームの一環となり、域内諸階級の国民的規模での組織化の枠組みとして機能することになった。だが、これによって、スウェーデン王権は、それまでバルト海政策で同盟していたポーランド勢力と敵対することになった。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第1篇
 ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市

◆全体目次 章と節◆

⇒章と節の概要説明を見る

序章
 世界経済のなかの資本と国家という視点

第1章
 ヨーロッパ世界経済と諸国家体系の出現

補章-1
 ヨーロッパの農村、都市と生態系
 ――中世中期から晩期

補章-2
 ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
 ――中世から近代

第2章
 商業資本=都市の成長と支配秩序

第1節
 地中海貿易圏でのヴェネツィアの興隆

第2節
 地中海世界貿易とイタリア都市国家群

第3節
 西ヨーロッパの都市形成と領主制

第4節
 バルト海貿易とハンザ都市同盟

第5節
 商業経営の洗練と商人の都市支配

第6節
 ドイツの政治的分裂と諸都市

第7節
 世界貿易、世界都市と政治秩序の変動

補章-3
 ヨーロッパの地政学的構造
 ――中世から近代初頭

補章-4
 ヨーロッパ諸国民国家の形成史への視座

第3章
 都市と国家のはざまで
 ――ネーデルラント諸都市と国家形成

第1節
 ブルッヘ(ブリュージュ)の勃興と戦乱

第2節
 アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗

第3節
 ネーデルラントの商業資本と国家
 ――経済的・政治的凝集とヘゲモニー

第4章
 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折

第5章
 イングランド国民国家の形成

第6章
 フランスの王権と国家形成

第7章
 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成

第8章
 中間総括と展望